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水子供養シリーズ

夢を摘む旅

  1 邯鄲病(1)

 いつもの癖でこういう時は、耳の後ろを掻いてしまう。
 研究室にまで呼び出されて、彼はいささかの不安を感じていた。押し寄せるタスクの山に忙殺されているであろうドクターのデスクは、しかし予想に反して完璧に整理が行き届いていて、落ち着かない気持ちは否が応にも高まった。
 どうにか心のよりどころを見つけようと、他者を寄せ付けない書類の城に隙を探すうちに、背後で扉の開く音がして彼はたじろいだ。
「来ていたんだね。待たせてすまなかった」
 紙束を両手に持ち直して、ドクターはきびきびと部屋の奥のデスクへと歩く。
 会議が長引いてしまってね、もっと楽にしてくれていいんだよ。あいにく、コーヒーは切らしてるんだが――。
 話しながら彼女はいましがた持ち帰った書類を片付け、残ったほとんどを大型のシュレッダーに放り込む。紙面を埋め尽くす意味は静かな駆動音とともに、次々と裁断されて失せてゆく。
「資源の無駄遣いだと思うだろうけど、文句は上に言ってくれ、なんでも刷らないと気がすまないんだ」
 手際の見事さに彼が見とれていると、弁解じみた言葉を彼女は口にする。非難の意図はなかったのだと、彼はまごまごと説明を試みるが、口を開くよりもはやくドクターは喋りだしている。
「さて、ちょっと無駄口が過ぎたね。本題はここからなんだ」
 いつの間にか取りだしていたタブレットをホロジェクタのコンソールにして、ドクターは部屋の中央にホロを投影した。描き出されたのは彼にもおなじみの、数倍に引き延ばされたヒトの大脳だ。
「治験の事前説明でもう見たよね。こいつがつまり私たちの主戦場で、殻に収まったでっかい胡桃。でもこの形だとちょっと扱いづらいから――」
 そうだ。脳についてはちょっとは予備知識がある。彼はここに来てようやく、少しだけ自信を取り戻した。治験にエントリーしただけじゃない。邯鄲病については色々調べた。シンポジウムも聴きに行った。あそこではドクターの発表もあったんだ。
 彼が予想したとおりにドクターは、皮質のホロに手を加えていった。ごく大雑把に言って大脳は、一枚の板が複雑に折り畳まれた形をしている。だからその構造を知るには、時に「開いて」やったほうが都合がいい。ドクターの主戦場は立体から面へ、そして点へと巻き戻されてゆく。
「さあ、これで見えやすくなった」
 描かれているのは歪な地図だった。
「これにも見覚えがあることと思う」
 イメージングが明らかにする、脳機能の局在図。酸素化ヘモグロビン、血流量、インパルス。脳の活動をまずは可視化し、そうして意味へと置き換えるこの分野で、ドクターの名はよく知られていた。
「知っての通りわたしはこれを、邯鄲病を解き明かす鍵と目してきた。その成果のうちのひとつが、あの去年の暮れのペーパーだ」
 同時多発的に人類社会に登場し、数年間にわたって版図を拡大しつつあるその疾病は、単に眠りから覚めないという以外の異状をもたらさず、いつからか邯鄲病と呼ばれるようになった。WHOがつけた長ったらしい公称は、ここ日本では使われることがなくなった。
 空中に描かれた展開図の上で、彩色された点の群れは明滅を繰り返す。ドクターがコンソールに指を滑らせると、展開図は分裂してふたつになり、微妙に違う形態と活動を示す。
「またもおさらいになってしまうけど、去年までの成果というのはつまりこれだ」
 さらなる分裂が続いて総数は十を越えるが、活動のパターンには大きな差異は認められない。
「ご覧のとおり視覚野に限って見たとき、患者の脳機能は同期しているかのように見える。そして彼らのほとんどはレム睡眠を続けている」
 急速眼球運動《Rapid Eye Movement:REM》は浅い眠りに伴って観察される現象で、夢見と関連付けて理解されている。邯鄲病患者の睡眠には、このレム睡眠が際立って多い。
「傍証はもっと必要だったし、神経回路には個人差も大きい。だがつまるところ、わたしの立てた推論は単純だ。つまり」
 |邯鄲病患者は眠りの中で、同じひとつの夢を見続けている。《傍点》
 ドクター自身の口から聞くと、その言葉はあらためて衝撃的に響いた。
 自分の言葉が作り出した余韻が消えてしまったところで、彼女は眉根をいつになく寄せた。これから語られるであろう、ここに呼び出された本当の理由を思って、彼は身構えるかのように体を硬直させた。
「それが『これまで』のあらましだ。そしてこれは」
 コンソールを操作。
「ここ数日に起こった変化だ」
 展開されていた脳の一部が、その領域を広げてゆく、視覚野だけではおそらくない、近接する領域のすべて、やがては新皮質のほぼ全域が映し出される。そして並べられた複数のサンプルに、これといった違いは見分けられない。
「患者の脳はいつになく同期している。これまでには見られなかった現象だ。ある意味では、病状は悪化していると言えるかもしれない」
 聞きながら彼は並んだ図を眺め、一見目立たない違いに気づく。一番右に位置する展開図だけが、聴覚野を赤く発火させていた。
「先生、それは」
 一番右のそれは、いったい誰のサンプルなんですか。
 答えを聞くのが恐ろしかった。しかし聞かずにはいられなかった。ドクターはそうかと溜息をつき、わかっているようだからと言いづらそうに告げる。
「君の脳のある領域が、邯鄲病患者のものと酷似した活動を示していることが確かめられた。この分だと次の入眠を境に、君は正式に邯鄲病の患者となり、そして今まで通りの事態が続く限り、目覚めることはおそらくない」
 彼はもう一度耳の後ろを掻いた。
 治験のために取りつけられた装置、脳活動を記録するインプラントが、そこには埋め込まれているのだった。

 六時間後、附属病院の一室で、彼は改造された寝台に横たわってドクターの言葉を反芻していた。あらかじめ発症が予期され、かつ治験に参加していた人物という条件が揃って、彼は被験者になることを受け入れたが、それで目前の不明が晴れるわけではなかった。安全装置についての説明を思い出せば、不安を振り落とすことができるのではと期待していた。
「いいかい、それは夢の中では釣り針として現れるはずだ。触れさえすればたちどころに、君を現実に連れもどしてくれる」
 インプラントのもう一つの機能。光遺伝学の一応用例は、ファイバーによって検出と介入を同時に行う。脳活動の異常に呼応して作動するそれは、まだ動物実験を終えてから日が浅かった。
 誰かの声が十分前を告げて、彼は現在へと引き戻される。
 ガラス越しにドクターが手を振るのが見える。くたびれた白衣の襟元から覗く、黄色い樹脂製の管理タグ。彼がなんとか微笑んで見せると、ドクターも強張った表情を解いて、心配ないと何度か頷く。
 忙しく動きまわる数人の技師に、壁の向こうの姿は隠される。
 至るところに塗られる消毒薬の臭いが鼻孔を満たし、それもチューブが挿し込まれると判然としなくなる。侵入する気流の感触は快いものではなく、彼はほんの少し顔を歪める。技師は意に介することもなく、予定されていた作業を終えて、そうして彼を覗き込みながら告げる。
「さあ、目をつぶって」
 弛緩してゆく自分の身体を、身体を支持する冷たい金属を感じながら、彼は言われたとおりに瞼を閉じようと試みる。視界に入ったふたりの人物の像が、じわりと輪郭をぼかしながら背景に溶け込んだ。
 彼は眠りへと沈降してゆく。


   2 〈夢摘み〉
 
 歩きつづけるうち目的地は見つかった。
 大地に根を下ろしたように、いかにもどっしりとした屋敷だった。マンサード屋根が組み合わされて緩やかな稜線を描き、建築の全体は有機的な印象を与えている。
 求めていたものはここにあるのだという予感が僕を動かした。扉を見つけて歩みよると、呼び鈴もノッカーも用意されていないことがわかった。それはあらかじめ来客というものを想定していない玄関だった。これから会う人物について、いささかの不安が胸中によぎった。
 僕はその幅広の扉の正面に立ち、拳を作って数回叩いたが、振動は巨大な用材に吸い込まれ、屋敷の内部へと届く前に消えてしまった。むきになって今度は渾身の力でノックを試みると、思いがけず扉は大きな音を立てた。
 ノックの反響が止むのを確かめると、僕は扉に耳を近づけた。しばらくの間無音が続き、やがて不規則な靴音が近づいてくるのがわかった。硬い、おそらくは石組みの床の上で、柔らかいものが触れたり離れたりする音にそれは聴こえた。僕は扉から耳を離すと、かしこまった姿勢を作って屋敷の住人を待った。
 巨大な扉が軋むことなく開き、中から青年が姿を現す。端正な顔立ちに引き締まった体躯。世捨て人にはとても見えない。
「待っていたよ。さあ上がって」
 何を言っているのか咄嗟にはわからなかったものの、うながされるままに中へ入る。青年が来客にかまうことなく奥へと向かうので、追いつこうと僕は歩幅を広げる。
「どうして」
 どうして僕が来ることを、あらかじめ知っていたのですかと聞こうとして、僕の方にもこの屋敷に来る理由などなかったことを思い出す。
 どことも知れぬ部屋を目指して、青年と僕は廊下を歩いてゆく。
「ええ、ええと、そうだ。名前、名前を教えてください。あなたの、名前」
 何か喋らなくてはと思い、やっと口から出たのはそんな言葉だった。
「名前?」
 そんなことは考えたこともなかった、というふうな顔をして、青年は答えを探しはじめる。
 本当に名前を持たずに生きてきたのだろうかと僕は訝しむ。人との関わりを断とうにも、最低限の必要というものはあるはずだ。しかしそうした尋常の想定が、ここで成り立つのかと問われれば答えに窮する。
「そうだな、名前がないと困るかもしれない」
 今更のように彼は頷き、今度は悩むことなく言葉を連ねる。
「よし、これから僕のことは」
 ユメツミと呼んでくれと青年は言った。
「夢ツミ?」
「草を摘む。の摘むだよ。僕は夢を摘んで暮らしているから」
 夢を摘む。心の中で反芻して、一向に意味がわからないことに気づく。説明を求めて視線を青年に向けると、〈夢摘み〉は待っていましたとばかりに話し出す。
「君は夢とは何だと思う? 僕に言わせればそれは選択だ。ありうべき複数の過去から、ただひとつの過去を選び出すことだ」
 それは解釈をおこなうということなのだろうか。疑問に思って尋ねると、そう言ってもいいかもしれないねと曖昧な返事をされる。
 過去が複数あるというのはどういうことなのか、僕は頭のなかでイメージを形作ろうとするが、想像ははっきりとした像を結ぶことなく霧散していってしまう。
「つまりこの現実は、入り組んだ網目の結節点《ノード》にあるわけだ。そして夢を見ている間、僕たちは自分がどの糸を渡ってきたのかを選ぶことになる。どこから来たかがはっきりすれば、行き先も自然と確定されるんだね」
 なんとなくわかった気になってしまい、僕はそんな自分に戸惑いを覚える。網をなす世界はともかくとして、未来の確定については承服し難い。しかし考えてみれば選択を行う私とは、実のところ過去をどう解釈するかによって形成されると、そう言えないこともないのではないか。
「どうやらわかってくれたようだね」
 そう言って〈夢摘み〉は扉を示した。あたりを見回して僕ははじめて、僕らが長い廊下を突き当たりまで来たことに気がつく。
「これからはここが居室になる。好きに使ってくれてかまわない」
 一人には十分な広さに大きな窓、明るく清潔な部屋は居心地がよさそうで、ありがたいことだと漠然と思う。背嚢を下ろして荷解きをはじめようとすると〈夢摘み〉は先を示してまた歩きだし、僕は落ち着く間もなく立ち上がる。
「さっきも少し話したけど」
 あたふたとついていく僕には構わずに、〈夢摘み〉は勝手に話しはじめる。
「夢というのは過去の取捨選択。無数の可能性からただひとつだけを選び出す過程だ」
 立ち止まって彼は小部屋に入る。窓がひとつもなくて薄暗く、廊下の照明だけが光源となっている。スイッチを捻ると光が室内を満たす。
「それでは目覚めたあと、捨てられてしまった過去はどこへゆくのか? それらはもはや無価値な、ただのがらくたにすぎないのだろうか?」
 天井からぶら下がるのは奇妙な細工物だった。それは一点を紐で結わえられ、吊り下げられたひとつの円であり、内側には糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、外周は羽根で飾られている。
 少し変わったモビールのようにも見える。しかし小部屋が帯びているであろう役割からして、ただの装飾であるとも思えない。
「それはドリームキャッチャーといって、ある部族が使っている魔除けの一種だ。悪夢を絡め取り良い夢だけを通して、悪い夢から眠っている者を守る」
 しかし僕の興味の対象はむしろ、と〈夢摘み〉は続ける。
「むしろ絡め取られた悪夢の方にある。こんなふうにして夢そのものをつかまえることが、僕の目的なのだからね」
 このお守りは実際に役に立っているのかと僕が訊くと、〈夢摘み〉はそうだとも違うとも言わずに肩をすくめる。
「ここはたくさんある部屋のうちのひとつに過ぎない。なんでも試してみるのが僕のやり方でね」
 さあ、ここはもういいだろうと彼は部屋を出て、足早に次の小部屋を目指す。
 今度の部屋はいくらか広く、おまけにちゃんと窓もあったが、なぜだか分厚いカーテンが引かれている。明かりは妙な色をしていて心もとない。
「この部屋は文書保管庫だ。僕が使う紙は光に弱くてね」
 立ち並ぶ書架にはぎっしりと書類が詰まって、強固な壁を形作っていた。読んでみてもいいと言われて少し迷い、しばらくしてから適当なひとつを抜き出す。
 弱い光の下で書類ばさみを開き、細かな文字に顔を近づける。
「……沈んだままの艦隊が教室となって、永遠に生徒を待ち続けている。泳ぎながら視点は次々と、誰もいない教室を渡る……」
 字は霞んでいて読みづらかった。僕は書類から顔を上げ、こうした記録で棚は埋まっているのかと尋ねた。
「いちいち開いてみて、確かめたっていい。しかし大変な作業になるだろうな。とるに足らない夢も捨てないで、残してあるからね」
 まあ似たようなことはそのうちに、やってもらうことになるだろうがと〈夢摘み〉はつぶやく。僕はもう一度溢れかえらんばかりの書架を見つめ、面白い夢とはどういうものかと質問する。
「それはなかなかいい質問だ」
 〈夢摘み〉は嬉しそうにそう言うが、しかしすぐには答えようとしない。
「まあ、でも、そうだな」
 まだ回っておくべき部屋はたくさんあるから、と、要領を得ない説明をしながら、彼は腰掛けていた椅子から立ち上がる。

 屋敷には無数の小部屋が存在して、それぞれに特有の役割が割りあてられていることを、ほどなくして僕は知ることになった。夢を捕らえる網を編むための手芸室。怪しげな装置が積み上がる機械室。夢にまつわる古今東西の文献を収めた資料室……。僕らはそれらを順繰りに巡り、少しの説明のあと次へと進むのを繰り返した。廊下は長く部屋は多くて、僕はいささかうんざりしていた。
「さて」
 何番目かもわからないある部屋で、彼は腕を広げてみせた。
「そこにカーテンが掛かっているのが見えるだろう。そう、そっちの隅っこだ」
 見れば確かにカーテンはあった。直方体を覆い隠すために設えられているようだった。
「そこには、僕がつかまえた夢のサンプルのいくらかが保存されている。あとで中身を見てもらうが、この際だ、さっきの質問にも答えよう」
 カーテンの裾へと歩み寄り、壁を背にして彼は話をはじめる。
「面白い夢とはなんなのか、という問いだったね。うん。面白いというのにもいろいろあるけれど、僕が夢を摘み集める理由は単純だ。それはこの世界にまだないものを含んでいるからだ」
「繰り返しになるけれど、夢の中で行われているのは世界のルールぎめのようなものだ。僕らは僕らをとりまく秩序を、あたりまえのように思って暮らしているけれど、それは最初から決まった秩序ではありえない。今ある秩序は選び取られた、かつてあった選択肢のひとつにすぎない」
「だから世界は消しゴムによって描かれている。秩序になりそこねた秩序たち、選ばれなかった過去に支えられて、なんとかこうして存在している」
 僕が夢を摘むのはそういう状況と無関係ではないと〈夢摘み〉は言った。
「夢は此岸へと流れついた、彼岸をなしていた要素の残滓だ。もちろんたいていの夢には秩序に触れる力なんてない。だとしても現実に新たな要素を付け加えるには充分だ。面白いというのはたぶん、おおざっぱに言ってそういうことだよ」
 わかりにくかったかなと〈夢摘み〉は言って、掴んでいたカーテンをさっと引いた。錆びついたレールが音を立てて軋み、覆われていた棚の内容が露わになる。
 息を呑む。
 並んでいるのは何かを収めた、円筒形のガラス容器だった。強い西日が夢の棚へと注ぎ、西日を浴びて中身は煌めいた。あるものは深緑、あるものは玉虫色に、そしてまたあるものは、日が没してしばらくした空のようなねずみ色に。
「そこに並んでいるような夢は、まあ言ってしまえばたいしたことはない。新味に欠けるし安定性が高すぎる。それでもこうすると見栄えはするだろう」
 おはじきみたいなものだねと〈夢摘み〉は笑い、乱雑な手つきでカーテンを閉める。ただし落として割らないようにね。中身が洩れると始末に困るからと付け加える。
 信じられないと僕は思っている。あんなに美しく照り輝いた夢がおはじきだなんて。〈夢摘み〉はああして、瓶詰めの夢をつまらないものとして扱うことで、あれらを独り占めしようと企んでるのではないかとすら疑いそうになる。
 釈然としないまま〈夢摘み〉に続き、それから数部屋を回って紹介は終わった。食堂で言葉少なく夕食を済ませ、僕は早々に眠りに就いた。

 次の日から僕は、当たり前のように〈夢摘み〉を手伝うようになった。文書保管庫での記録の整理、種々の器具の調整、あまりにも多い部屋の清掃と、雑務のたぐいは充分に用意されていた。前々から助手が欲しかったんだよと〈夢摘み〉は喜び、これで仕事もずいぶん進むだろうと声をはずませた。
 作業の多くはほどほどに体を使うもので、日没まで働いてはベッドに倒れ込む日々が続いた。熟睡のためか夢を見ることはまったくなく、それは不思議といえば不思議ではあった。
 じわりじわりと身をすり減らすような作業に疲れると、僕は決まってあの夢の棚を訪れるようになっていた。薄く積もった埃を落としてやると、瓶に詰まった夢は以前にも増して美しく輝いた。僕はしばらくそれに見とれ、そうしてまた作業へと戻ってゆくのだった。
 あちこちの部屋を飛び回るうち、僕は屋敷の間取りに何か不自然な感じがあることに気がついた。違和感の正体ははじめはっきりとしなかったものの、正確な間取り図を作ろうとする過程で判明した。
 この建物は外観に比して容積が大きすぎ、また部屋の間取りも一定ではないというのがその答えだった。館を前にして最初に抱いた有機的な印象は、図らずして正しかったことがこうして裏付けられた。どういうわけか、この館は生きて《傍点》いるのだった。
 屋敷に来て数ヶ月ほどが経ち、変化をつづける間取りにも戸惑うことはなくなったものの、僕が夢を見ることはついになかった。
 いつからか僕は少しずつ不満を溜め込んでいた。それは得体の知れない「仕事」を上機嫌で続ける〈夢摘み〉に対しての不満でもあったし、素晴らしいはずの夢を見られなくなった自分に対しての不満でもあった。僕は自分が楽しみから遠ざけられ、ただ雑役夫として消費されていくことに辟易していた。
 不満はあるとき形をなし、僕を行動へと駆り立てた。その日僕は掃除もほどほどに手芸室を抜け出し、夢の棚があるはずの部屋へと歩を進めた。
 ドアを開けるとそこは果たして戸棚の部屋だった。いつものごとく摘みとられた夢たちは瓶に収まって、丁寧に戸棚に並べられていた。貼られたラベルに書かれた記号は読めなかったが、それが素晴らしい何かであることには疑う余地がなかった。
 少しためらって周りを見回したあと、僕は踏み台によじのぼって容器に手を伸ばした。ひやりとした表面に指先が触れ、引き寄せるとそれは存外に重かった。使われているガラスが厚いのだろうと僕は思った。落とさないように慎重に抱きかかえて、一歩ずつゆっくりと踏み台を降りた。そして侵入の痕跡を残さず消してしまうと、急いで廊下を過ぎて自室へと戻った。
 寝台に横たわって、僕はあらためて夢の瓶を眺めてみた。
 主成分は薄いねずみ色だ。ビロウドがいくつも折り重なったような、オーロラを一所《ひとところ》に折り畳んだような中身は光を通し、日に透かすと中の細かな粒子が輝いた。夢はうねり、鼓動して、瓶のなかで命を永らえていた。
 蓋を開けてやるとそれは動物のように、ぴょこんと僕の腕へと飛びうつった。少しの間様子を窺うそぶりを見せたかと思うと、親しげに肩を伝って頭の方へ這う。
「あっ」
 止《とど》めようとした時には遅かった。素早く耳孔へと飛び込んだ夢が、さらに奥へと進むのがわかる。
 冷たいものが頭の中心に到達し、そこで何かを置き換えはじめる。
 
 硫黄の臭いが鼻を突いた。赤黒く染まった空からは、絶えず腐った巨人の肉体が落下してきた。彼らの中にはまだ息のあるものもいて、暴れるのに巻き込まれて幾人もが死んだ。あちこちで火災が発生し、僕は巨人の死体を縫って逃げ惑う。巨人そのものも脅威ではあるが、より恐ろしいのはそれに寄生した生物だ。それらは人間を探し出し、自らの養分とする習性を備えていた。どこか安全な場所を見つけて、速やかに隠れる必要があった。だだっ広い商店に僕は逃げ込み、煌々たる照明の下を歩いた。陳列棚はどれも空で、人ひとりが収まるのに十分な広さがある。僕はもう逃げるのには疲れた。外に出れば間違いなく、やつらに見つかってしまうことだろう。観念して商品棚に身を滑り込ませる。サイレンの音が遠くで聴こえ、叫び声がさらに小さく響く。僕はじっと目を閉じて待つが、耳は扉が開く音を拾って……。

「おい、馬鹿だな、起きろって」
 水面から顔を上げたようだった。僕は不器用に息を吸い込んだ。傍らに〈夢摘み〉がいるのが見えた。手には小瓶が握られていた。
 しばらく荒い息を吐いたあとで、差し出された水を一杯飲んだ。全身を濡らした汗が引き、呼吸と心拍が一定へと戻ってゆく。
「馬鹿らしいだろう。つまらない悪夢なんかで嫌な思いをするのは」
 〈夢摘み〉は呆れたようにそう言うと、落ち着いたのなら、いいものを見せてあげようと僕を先導する。曲がりくねる廊下を僕らは進み(こんな通路が屋敷にあっただろうか?)、突き当りに近いある扉にたどり着く。
「この部屋では」
 厚いドアを押し開いて、〈夢摘み〉は部屋の全体を示して見せる。「夢の固定について試している」
「固定?」
 聞き返すとそうだと彼は応じ、作業机から一塊の岩とタガネをとりあげる。ここにはある化石が入っていると〈夢摘み〉は言って、タガネでもって岩をふたつに割る。見てみなよと突き出された岩の一片には、極彩色のアンモナイトの殻が埋まっている。
 夢の棚の瓶などとは比べものにならなかった。本当に美しい色とはこういうものかと僕は思った。
 見るうちに化石の色は褪せ、ありきたりの褐色へと変じてしまう。
「夢の価値は、その安定度の逆数として評価することができる」
 タガネを机に戻して〈夢摘み〉は話しはじめる。広々とした作業机の上には厚い書物や顕微鏡、頭蓋骨の模型などが置かれている。
「つまり面白い夢ほど儚く、つまらない夢ほど安定しているんだ。これは夢が、切り捨てられた過去であることを考えれば納得がいく。この世界、選ばれた過去と親和性が高い夢ほど長持ちし、逆に現実とかけ離れた過去ほど短命ってわけだ」
 ゆえに。と彼は続ける。
「真に素晴らしい夢、夢に王たる夢の王は、この世界にまったく馴染まない。それはどこにも痕跡を残さず、極めて短い時間のうちに消え失せる。けれどもし、僕らがそれを留めおくことに成功したなら、それは現実そのものを書き換えるような、この世界の秩序そのものを違った形に変えてしまうような働きを持つはずなんだ」
 言うなればそれは揮発性の、〈世界を目覚めさせる夢〉だよ。
 〈夢摘み〉はそれから机の上の品々について、〈世界を目覚めさせる夢〉を摘み取るべく、彼が行ってきた試みとその挫折について話した。彼はまず世界の秩序を形作っているのは言葉であると考え、この世ならざる言葉の網によって〈揮発性の夢〉を捕らえることができるのではないかと考えた。けれど作り出される言語はことごとく、既存のものと本質的には変わるところのない代物にとどまった。ここに至って彼はようやく、そのような言語を生み出す事自体が、〈夢の王〉をつかまえるのに等しい行為であることに気がついた。
 次に彼は微細な網を試したが、これは予想されていたようにうまくいかなかった。物理的な属性に多少手を加えたところで、〈夢の王〉にはかすりもしないのだった。そうして彼は行き詰まり、今後の方針を考えあぐねているのだそうだ。
 今や〈夢摘み〉は途方に暮れているようだったが、それでも自分の仕事に価値を見出している様子がうかがえた。僕は秘密を明かされたことに満足し、自分の持ち場へと戻ることを告げた。
 そしてまた同じように、事務仕事を片付ける数ヶ月が過ぎた。前の数ヶ月と変わった点といえば、夢の棚を前にして時間を潰すことがなくなったこと(あの一件以来、掃除に際してもできるだけ、瓶には触れないように心がけていた)と、それから〈揮発性の夢〉について考えるようになったことだ。
 〈夢の王〉の実体とはどのようなものか、僕は何度も想像を膨らませた。けれどそれは常に、想像の外側に存在するものであるのに違いなかった。〈夢摘み〉に時折仕事の進み具合を尋ねたが、返事はつねに曖昧なものだった。きっと大して進んでいないのだと僕は思った。有望な着手点を見つけるだけでも一生を費やしそうなテーマなのだ。
 袋小路より脱する術は見つからずじまいなのだろうか、溜息をついて僕はお茶を淹れ、例の部屋に篭っているであろう〈夢摘み〉に届けようと思う。お盆を傾けないように注意しながら廊下を進み、ノックすることなく扉を押す。
 期待していた返事はなかった。しかし〈夢摘み〉は確かにそこにいた。
 作業机をどかしてしまった部屋の中央で、彼は中空に浮かんだ小さな球を前にしていた。球体が放つ耐えがたいほどの光は絶えずゆらめき、その中に潜むなんらかの存在を示唆しているようだった。そして放たれる光の色を指す言葉を、僕は持ち合わせていなかった。
 脂汗をたらしながら、彼が何事かを口走った。時が来たのだと僕は思い、次に来る変動に備えなければと考えたが、何をなすべきか皆目見当がつかなかった。光球の輪郭は微細な振動を続け、外界との攻防を続けながらも、着実に貪食と膨張を進めていた。
 もはや何もすべきことはなかった。僕は意味のあることを何一つ考えることができず、ただ呆然と上方を見上げた。
 そこで見たのだ。
 虚空より垂れ下がる細い糸と、その先に光る小さな針を。
 一切が光の渦に巻き込まれようとしていた。渾身の力で跳躍し、釣り針へと腕を精一杯に伸ばす。


   3a 邯鄲病(2)

 その日彼はまだ病室にいて、横たわっていつかのようにドクターを待っていた。繰り返される精密検査にはうんざりしていたが、自分の身に起こったことについて整理する時間が与えられたのはありがたいことだとも思っていた。けれど整理すべき対象は判然とせず、空回りの憶測だけが回転数を増していった。
「はっきり言って、何が起こったかを把握できている者はこの世界にはいない」
 ドクターの表情からは落胆も憤りも感じられなかった。ただ確実な疲労だけがそこからは読み取れた。彼が目を醒ましたあの日より後に、ドクターに押し寄せた業務の量を、疲弊の色は物語っていた。
「しかし説明を試みることはできる。君も退屈していただろうし、私には実験の責任者として説明を果たす義務があると思う。だから来た」
 ようやく質問を許される機会を与えられて、質問攻めを受ける立場にあった彼は心底うれしかった。彼は自分の身に起こったことについて知りたいと願ってきたのだし、それに満足に答えられるものはどこにもいなかったのだ。
「じゃあ……」
 たずねるべきことは山ほどあったが、まずは自分が目覚めたときの状況が知りたかった。あの劇的な覚醒ののち、彼はすぐに「正常な」眠りへと落ち、たっぷり半日は寝てしまった。
 見た夢のことを何度も聞かれたが、そのたびに何も覚えていないというしかなかった。ごくまれに記憶の断片らしきものが蘇ることは確かにあったが、言葉に置き換えようとすれば色褪せて消えた。そうしたことについて他人に話してみても、たぶん理解は得られないし、どう話せばよいのかも彼にはわからなかった。
「なんだ、そんなことも聞かされてなかったのかい。別にそれくらいで、検査の結果に響いたりはしないと思うんだけど」
 しかし問題は法規的なところにあるのかもしれないなと彼女はひとりごち、それから意を決したようにしゃべりだした。
 結論から言うと、あの時目覚めたのは彼だけではなかったのだ。
 確認されていた邯鄲病患者の全員がその日のうちに目を覚まし、その後異常を示すことはなくなった。
 人類種を滅亡の手前まで追いやっていた疾病は、一夜のうちに地上から消え失せてしまった。
 そして報告されているかぎり、世界で最初の帰還者は他ならぬ彼だったのだとドクターは言った。
「わたしは今もサンプルの収集を続けているが、一連の現象について一貫した説明を与えることは難しい。しかし裏付けはないものの、有望な筋をひとつあたためているんだ」
 君はプリオンを知っているかと今度はドクターが尋ねる。
 一応は、と彼は答え、確か異常に畳み込まれたタンパク質のことを言うのだったと記憶を探る。まだ小さかったころに世間を騒がせた、狂牛病の原因がそれだったはずだ。
「そう、組成そのものに変わったところはなく、ただフォールディングが特異的なのだ。そして最も大事なのは、それが自己複製能を持つということだ」
 プリオンの異常な畳み込みは、他のタンパク質へと伝播していく、そうして生体の機能を損なわせてしまう。
 それと同じことが、邯鄲病についても起こったのではないかと彼女は考えたのだ。
「もちろん、原因がプリオンにあるというわけではないよ」
 神経発火のあるパターンが、それ自体を複製させるような機能を備えたとすれば、そしてそうした機能が、個体間を渡ってゆくようなものだとすれば。
「現時点ではすべて仮定にすぎない。物的証拠が出るとも限らない。だから公にこのことを話すことは絶対にない」
 ドクターはまた、邯鄲病の「終焉」に際しても似たような現象が起こったのではないかと話す。当該パターンのキャンセラーとして働くパターン。プリオンの比喩に則るならばシャペロンのようなそれが逆に、患者から患者へと伝わっていったのではないかと。
 流石に無理がありはしないか。
 彼は当然のように疑問を抱く。
 目覚めている人間を繋ぐものは確かに多い。発達したネットワークはあらゆる個人を緊密に結びつけている。
 けれど眠ってしまった患者たちは、どうやって互いにパターンをやりとりするのか。
 覚醒に要した時間はたった一日なのだ。そんな都合のいい媒体を彼は知らなかった。
「だから仮定の話だと言っただろう。そうとでもしなければ説明がつかないということだよ」
 釈然としない一方で、彼の胸裡には密かによぎるものがあった。
 それは瞬く間に世界を覆い、そして消えてゆく夢のビジョンだった。同じような話をどこかで聞いたはずだと彼は思ったが、思い出すことはできなかった。
 ドクターは彼女流の解釈について、今度はより詳細な説明を加えようとしていた。以前のようにホロこそ持ち出してこなかったものの、タブレットにいくつかのモデルを映し出しては熱心に語った。
 彼はそうした説明をすでに真剣には聞いていなかったが、ドクターが元気そうに見えるのはよいことだと思った。メディアの前に引きずり出され、愚にもつかない質問に応じるよりも、きっとこうしている方が幸せなのだろうと彼は思った。
 何気なく窓の外に目をやり、彼は気づかれぬままに世界に起こった変革について考えた。眼下では自動車が列をなして流れていた。太陽は天頂へと近づきつつあり、都市は次第に代謝を早めている。視界の隅に何か輝く、小さな像が入り込んだが、彼の注意が向けられることはない。
 自分はこの一件で変わってしまったのだろうかと彼は考えた。そうかもしれない。けれども本当の変化というものは、どこにもその痕跡を残さないのだろう。


   3b ユメクイサスライアリ

 蟻たちは隊列を乱すことなく行進を続ける。倒木を乗り越え水溜りを渡って、ついにその木へとたどり着く。
 白く照り輝く樹皮に褐色の点線が描かれる。鋭利な顎が葉片を切り取り、体より大きなそれを担いで来た道を戻る。木漏れ日に透ける葉の内側では、煮え切らぬ液体が揺蕩い続けている。
 彼らが目指す巣の最奥、光を遠ざけたある一室で、持ち込まれた葉片は積み重なる。杜氏は時折ここを訪れ、葉のいちいちにそっと触れてゆく。分泌腺から出る微量の胞子は、やがて思い思いに菌糸を延ばし、育ちきったところで蜜蟻に食べられる。一部屋に百ほど飼われる彼らは特定の味と匂いを選好し、その腹に溜まってゆく蜜の組成はそれぞれに異なっている。同じ葉と胞子を出発点としているにもかかわらず、終点はかくも多様である。
 腹いっぱいに蜜を詰め込んで彼らは絶命し、骸《むくろ》は係の者が二匹がかりで別室に移す。頭を切り落とされた後にそれらは並べられ、広大な空腔を次第に埋める。
 かれらは疲れを知らずに働き、欠員は速やかに充填される。成果として一帯の木々は枯れ果て、ある日突然にして引っ越しが断行される。
 今や蜜蟻の陳列室は満杯であり、菌床室には一枚の葉片も残されてはいない。杜氏と収穫班と存命の蜜蟻が住処を出払い、運搬班が蜜蟻の瓶を運び出す頃、ようやく女王室から影が這い出す。眠っていた彼女は瞼を開き、巣の外へ向かってゆったりと歩く。腹に抱える卵は建築班のもので、彼らはあらゆる従業者の中で最も短命である。
 地表に並べられた蜜瓶を見て彼女は微笑む。ふんだんに降り注ぐ陽光が瓶の中身を暴いている。見事なまでのグラデーション。ひとつとして同じ色はなく、その数はほとんど無数である。
 新天地への長い旅路の間、蜜は糧食として供される。女王がひと舐めした瓶に限って分配が許され、構成員は順繰りにご相伴にあずかる。彼女は味見のたびに顔をしかめるが、次を試す前にはいつも期待を隠さない。
 すぐにでもそれを見いだせるかもしれぬ。叶わなくとも次の巣は目前だ。
 真社会性が達成した恐るべき高効率。一列をなした数千の助手。すばらしい改善だと使用者はほくそ笑む。主の意図を忖度するに足る余分の能力は、労働者たちには与えられていない。


   4 〈月〉の建設

 夜明けが地表をなでてゆくのを、僕は高いところから眺めている。夜と朝の境界で色彩が蘇り、ものどもが輪郭を取り戻してゆくのを。そうして曖昧さの中で呼吸していた生き物たちが、またも無様に息絶えるのを。
 視点は空のある一点にあって、あらゆる妨げを受けることがない。くるりと視野を動かして、別の対象に定める。
 空の半球の反対の極、沈みゆく青い天体の上で、〈月〉の建造は進んでいる。目に映らぬほどに小さな技師たちが、歪な月の縁で仕事をしている。
 あそこに、と彼女は言う。あそこにわたしたちが手にすることがなかったすべてが含まれているのね。
「そう、それにきっと、これから手にすることのないであろうすべても」
 〈月〉は僕らの到達した最終結論だ。どんな過程を辿った歴史も、やがてはここに至ることになる。通過せざるを得ない結節点、ある種の欲望の終点はここなのだから。
「あれが完成する時、僕らの生は真に完全なものになる。僕らはそこでようやく、すべての可能性を手にすることになるんだよ」
 言いながらも僕は気づいている。本当は〈月〉が完成することなんてありはしない。それは単に慰めにすぎないのだ。ただあるひとつの可能性を、意志にも偶然にも依らず選択せざるを得ない人間たちの。
 没してゆく〈月〉はそれでも美しかった。その輪郭はあとすこしで完全な円を描くと思われた。本当に、もうすこしで。
 最初の光束が地平線を乗り越える。夜はもう間もなく明けるだろう。一切に定型が与えられ、誰かの見た夢が揮発してゆく。
 気が付かぬほどにかすかな残り香。僕らはそれを吸い込んで街へ出てゆく。〈了〉

 

 

夢を摘む旅 梗概
 夢に見られ、覚醒と共に忘れられるのは「選ばれなかった過去」である。我々は複数の過去から伸びる世界線の結節点においてやってきた過去を選択し、覚醒と共に他の可能性を捨て去っている。人はそれでも「ここにはないもの」に惹かれ、手に入らないとわかっていてそれを追い求める。邯鄲病と呼ばれる、昏睡を引き起こす病に襲われた世界で被験者は患者の夢へと潜り、そこで夢を蒐集している、〈夢摘み〉を名乗る助手と出会う。〈夢摘み〉は選ばれなかった過去の中で最も現実から遠ざかっている世界に由来した〈夢の王〉を追い求めているのだと語り、ある時ついにそこに肉薄する。世界は分岐して被験者は元の世界へと帰り、邯鄲病の終焉を知らされる。あるいは永遠の下僕として、〈夢摘み〉と共に数多の世界を渡り歩く。その事業は本質として同一のものだが、彼らの記憶や人格は一定ではない。彼の望みはやがて、人工の月が浮かぶ世界へと彼を誘う。月には一切の可能性が含まれているが、永遠に完成することはない。「ここにはないもの」を追い求める人間の欲求は永遠に満たされない。それは選択を強いられる人間にとっての慰めに過ぎず、それゆえに美しく極めて脆い。