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三題

 ノイズのひどい夜だった。回線を開いて名前を告げ、向こう側からの指令を待つ。

>状況は了承した。こちらとしても時間がない。速やかに《合わせ鏡》の回収に移れ.
 話が早くて本当に助かる。暗がりから街灯の下に歩み出し、指定された通りに階段を上る。岸壁に築かれた都市の一画、林立する建造物の合間に一瞬、壁の下に広がる市街が覗く。
 眼前には細い路地が延び、消失点に影が動くのが視える。拡大を繰り返して長身を確認し、ゆったりと歩を進める。交錯までの時間はおよそ一分。奴はおそらく引き返さない。
 こちらにしても退散する理由はないのだ。歩幅と呼吸を一定に、できることなら心拍も。気取られるような動揺はないはずであり、そうであるならば隠す必要などないはずなのだ。前任者三名を葬り去った対象を前にして、そんなことを何度も反芻している。
 残り二〇秒。思い出したように胸ポケットを押さえる。手応えにいつもの感覚が戻る。失敗はありえないと自分に言い聞かせ、立ち止まって壁を背にする。
>おい.
 数メートル先の男に飛ばす。予期していたように彼は顔を上げ、なんだと言うようにこちらを見る。
>火を持っていないか,オイルを切らしてしまって.
 取り出した煙草を示して呼びかける。男は歩みを止めずにこちらに近づき、口を開くことなく応える。
>ああ,持っている.
 煙草を男の方へと差し出す。身体を折り曲げて彼は火を付け、いいかというようにこちらを見上げ、
>お前.
 あまりにもあっけなく網へと掛かる。
 瞳を覗き込んだ瞬間から介入は始まっている。二次網膜に直結した配線はミラーニューロンに投射され、解析と攻撃とを同時に行う。男はその場に凍りついて対抗措置を展開する。速い。こちらの狙いが逸らされている。並列部隊への接続を増やし、底上げを図るが焼け石に水だ。意趣返しのように《合わせ鏡》はこちらを覗き込み、瞳の奥で光を瞬かせる。

 ホワイトアウト
 一瞬の硬直から復帰して状況を確認する。思うように侵襲は進んでいない。防御に資源を回さざるを得ず、評価値は下降の兆しを見せている。よくない、とてもよくない状況だ。これは――。
 私は覗き込む瞳の奥に私を見つけ、瞳の中の私は私を見ている。彼を演算する私を演算する彼を演算する私を演算する彼を演算する私を演算する彼を私は演算している。彼を演算する私を演算する彼を演算する私を演算する彼を演算する私を演算する彼を私を演算する彼を演算する私を演算する彼を演算する私を演算する彼を私を演算する彼を演算する私を演算する彼を演算する私を演算する彼を私を演算する彼を演算する私を演算する彼を演算する私を演算する彼を
 《合わせ鏡》の迷宮。
 同業者に名高い手管のひとつに、私はなすすべもなく取り込まれてゆく。

>終わったぜ.
 エラーを吐いて固まった相棒をおれは起こしてやる。
>ああ……そうか,私は.
>作戦通りだろ,万事OKだ.
>そうとも.

 身体を返すのが名残惜しく、おれは現世をちらりと垣間見る。手の中で燃え尽きようとする煙草。頭を垂れて立ち尽くす男。雨に濡れた路地。しけた街のしけた夜。けれど久々に見る景色にしては悪くなかった。
>ご苦労だった。《ピーナッツ》
 あいつみたいに格好の良い名前がよかったな。少し思いながらもおれは満足している。ひとりがやられても予備があれば問題はない。ひとつの殻に収まった実はひとつとは限らない。背景に流れるノイズを聴きながら、おれは意識下へと埋没してゆく。

 

合わせ鏡・落花生・煙草