水子供養シリーズ

 ガラス越しの法務官が手を振る。外部者用白衣の襟元から覗く、黄色い樹脂製の管理タグ。彼女がなんとか微笑んで見せると、法務官も強張った表情を解いて、心配ないと何度か頷く。
 忙しく動きまわる数人の技師に、壁の向こうの姿は隠される。
 至るところに塗られる消毒薬の臭いが鼻孔を満たし、それもチューブが挿し込まれると判然としなくなる。侵入する気流の感触は快いものではなく、彼女はほんの少し顔を歪める。技師は意に介することもなく、予定されていた作業を終えて、そうして彼女を覗き込みながら告げる。
「さあ、目をつぶって」
 弛緩してゆく自分の身体を、身体を支持する冷たい金属を感じながら、彼女は言われたとおりに瞼を閉じようと試みる。視界に入ったふたりの人物の像が、じわりと輪郭をぼかしながら背景に溶け込み、やがてすべての光景に幕が、ゆっくり、ゆっくりと降ろされてゆく。

 潮の香に彼女は振り返る。蒼穹と、オリーブのしがみつく岸壁を額縁にして、眼下には葡萄色の海原がのたくっている。昼下がりの入江。波はこの上なく穏やかだ。
 立っていた高台から砂浜に向けて、けもの道が蛇行しながら下ってゆくのが見えるが、道にも浜にも足あとは残らない。風だけが丈の高い草を揺らして吹き抜け、淡く染まる両頬を交互に撫でる。
 視線は水平線に注がれたままだ。彼方に見える点が少しずつ拡大し、迫り来る船の威容が少しずつ明らかになってゆく。ぐったりと垂れ下がった白い帆、漕ぎ手の頭のひとつひとつ、喫水線に描かれた、見覚えのない文様のいちいち。
 帰ってくる、彼が帰ってくるのだと、根拠のないままに彼女は悟っている。巻き上げられる砂塵にも、擦過傷に滲む血にすら気をとられることなく、急勾配を駆け下り、浜の砂を巻き上げて、よろめきながらも波打ちぎわに駆けよる。
「ウリクセース」
 気づくことなく彼女は口走っている。

「お目覚めですか」
 先ほどとは別の技師の声が聴こえ、閉じていた瞼をおずおず開く。薄闇に体を起こすと照明が点灯し、取り囲む人々の影がくっきりと落ちる。
「ここがどこか、わかりますか。あなたが誰かも」
 淀みなく彼女は返答を作る。息を吐く音が耳障りに響き、何人かが部屋をあわただしく出ていくが。質問は止むことなく矢継ぎ早に繰り出され、最後には彼女はひどく疲れてしまう。