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ビギニング

 公共終端に目をやると、明滅がメッセージの到着を静かに示した。そのまま内容を読むことなく画面を落としてしまうと、彼は座っていたベンチを後にして歩きだした。

 川沿いに散り散りになって生える木々はもうすっかり落葉して、遊歩道はくすんだ暖色で満たされていた。薄く広がった燻煙に混ざって、どこか遠くで焼かれる芋が匂った。
 ここ数日のことを思い出さねばいけないような、強迫的な感覚に彼はとらわれていた。感覚は拭い去ることの出来ない、紙上に落とされた一滴のインクのように、心裡に染みついて消えることがなかった。
 コートのポケットに収められた公共終端に、歩きながら彼は触れようとし、辺りを見回してはそれを諦めた。そうした仕草は何度も、次第に間隔を狭めては繰り返されていった。
 昼過ぎで、少なくない人々が辺りを行き交っている。大きな犬に引きずられるようにして、宍色の上着を着た老爺が彼を追い越してゆき、関節の浮き出た子供らが続く。走り去った彼らの行く先、彼の視界の中央には、朽ちようとする巨大な橋が入る。
 欄干をくぐって伸びる遊歩道に、躯体がぼんやりと影を落としている。展開された黄褐色の簡易居住施設は、体を屈めて眠る住人たちを包みこみ、さながら繭のように橋桁から吊り下がって、幅広の支柱に沿って並んでいた。
 そうした住居のうちのひとつ、主を失って放置されたそれに、彼はそっと首を差し入れ、ちょっと振り返るそぶりを見せると、もう靴を脱いで体を滑りこませた。
 編まれた繭の中は暖かく、揺られながら彼は深く呼吸した。脱いだコートを脇に寄せてしまって、隣の気配を窺おうと息をひそめた。

 たぶん半世紀、もしかしたらもっと以前から、新陳代謝を放棄した思想。潤いを失い、とうに枯れ果てて、かえりみられることもなくなった言葉が、そうして講師の口を離れ、まばらな学生の脳裡を占めて、ほとんど吟味されることもないままに忘れられる過程のただ中に、彼もまた席を占めている。環境の保全のために要請される方法のそれぞれについて説明が繰り返され、幾人かが使う筆記用具が、控えめに音を立てながら紙面を汚してゆく。
 こめかみに埋め込まれた小型の装置を、皮膚の上から触りながら、彼は先月行われた手術のことを考える。公共終端のアカウントを介して、直接に個人に届く通達。ランプの黄色い点滅。医師から受けるひととおりの説明。手術室で見たロボット。疼痛。公共終端にダウンロードされた、容量の大きな取り扱い説明書。
 マイクとスピーカーを兼ねた、汎用の骨伝導インタフェイス。そんなものが必要となる環境は限られているはずで、雑踏だの作業場だのは問題にならない。日常的に轟音を耳にし、なおかつ正確な伝達を要求する場面を、すべての学生について想定すること。指し示される結論は明確で、それでも声を上げるものは限られている。取り扱い説明書の片端に、小さくゴシック体で印刷された四文字を、無感動に眺めたことを思い出す。
 行くかと声がかけられて、彼はそちらを振り返る。
 半地下の、照明の乏しい食堂のテーブルで、四人は言葉少なく食事する。筋の多い肉を何度も噛みながら、向かいに座る男子学生が予定を尋ねる。告げられた日付に少したじろき、バイトが忙しいとお定まりの言い訳を使う。どこで働いてるのか、いい加減教えてくれたっていいじゃないか。どうせ楽しい話にはならない。暗い底でうごめく全員が疲弊していて、咀嚼の音だけがしばらく響き、ときおり誰かがひどく咳き込む。
 集合と同じく曖昧に、彼らはふたたび散開してゆく。昼下がりの陽光が背中を温め、銀杏の臭いが鼻をつく。イチョウの葉が敷き詰められた構内の通路に、肝心の実はひとつもない。誰かが持ち去り食しているのだろうと、彼はぼんやりと考える。
 角を右に曲がり、横断歩道を渡るうちに、鼻腔を占めていた臭いは薄まってゆく。あるエリアからあるエリアへ。判然としない境界を越えて、彼は迷うことなく歩いていく。
 目指す喫茶店はひっそりと、常連でなければそれとわからないほど不活性に、しかし営業を続けていた。記憶にある限りはずっと、店先に掲げられていた外国の国旗は、ある時店内に移された。バーカウンターの後ろの壁に目をやり、褪せた鮮緑を確かめようとしても、剥き出しの壁だけがただ広がっている。
 二代目の店主は落ち着きのない動きで、琺瑯のポットからコーヒーを注いでこちらによこす。頑固に据え置かれていた値段が上がったのは昨年のことで、そんな風にして一切は瓦解していく。
 客がまばらであることを確かめて、彼はテーブル席に腰かける。コートを脱いで背もたれにかけ、カップに口をつけたところで、奥の席で雑誌を広げていた男が立ち上がり、よろめきながら外へ出てゆく。車の走り去る音が聞こえるが、彼が振り返ることはない。飲み干すと手早く代金を支払い、かけていたコートを手にとって店を出る。
 見知らぬ客がひとり、入り口に近いカウンター席に座っていたのが、どうにも気になって仕方ない。背後をそれとなく確かめても、それらしい影は見当たらない。
 光を返す川面を見つめ、そちらに背を向けて家々に呑まれる。

 かろうじて営業を続ける果物屋の二階に、彼は挨拶もせずに上がってゆく。かつての繁華街の成れの果て、朽ち果てようとする放棄されたビルの群の中に、組織の拠点は置かれている。
 待っていた数人に手を振って見せ、コートのポケットから紙片を取り出す。予定どおり受け渡しは行われたが、内通者から得られたゆく。パスを生かす手立てがない。優秀な技術者を失って、彼ら組織は電磁的な手立てを封じられたに等しい。
 部屋の隅には終端のクローンが、コードまみれになって置かれている。ひとりがそれをしばらく弄るが、やがて首を振って下へ降りていく。
 接続が支配の手段となり、切断が抵抗の象徴になっても、終端なしには立ち行かない部分は多い。矛盾の解消はある個人に委ねられ、そして当たり前のように彼女とともに破綻した。
 探索の過程で、彼女は触れてはいけない何かに触れたのだと噂されていた。形を持たない恐怖が速やかに、きわめて効果的に組織の隅々に浸透していった。

 隔壁を取り除いて造られた広間に、少しずつ人が集まってくる。
 計画を中止することは、この段階に入ってはもはや不可能だということを、構成員のすべてが諒解している。一方で想定外の損失が、実行にどの程度響くのかについて、正確に把握している者はひとりとしていなかった。
 長く続いた会議が終わり、幹部のひとりが彼を呼び止める。人が去ってゆく部屋に音もなく、冷たい空気が流れ込んでゆく。
 果物屋の裏口に連なる、錆びついた非常階段をふたりは登る。薄く張られた鉄板が、思いのほか大きく音を立てて軋む。どこか遠くから煙が広がり、すこしずつ粘膜が傷つくのがわかる。暖気が漏れだす屋上の排気設備に、吸い寄せられるようにして腰を下ろす。
 幹部はどこからか缶をふたつ取り出し、無言のままで彼に手渡す。小気味のいい音がしてプルトップが開き、湯気とともにポタージュの匂いが流れる。ゆっくりと飲み干すうちに体は温まってゆく。
 曇天が闇を濃くする夜に、窓に灯った明かりはまばらだ。遠くに走る幹線道路に、列なして流れる光ばかりが鮮やかで、それらのひとつひとつが装甲車輌であることを彼らは知っている。いくつか言葉を交わし、どちらかが彼女の死に触れようとしてやめる。
 目下の街のあちこちでは、巡回する夜警の警棒が光る。夜間外出禁止令の施行と増員。彼らとて面倒に巻き込まれたくはないのだろう。彼らが対象を見つけるよりも早く、対象が彼らを見つけられるように、警棒はことさらに大きく振られ、残像は弧を描きながら減衰してゆく。
 それら数少ない光点も、いずれは消え失せるのだと彼は思う。見届けたいと少し願って、そんな自分に驚きもする。真っ暗闇の夜はきっと、今よりもにぎやかになるんじゃないか。
 行くよ。もういいのか。ああ、ありがとな。
 巡回路を念入りに迂回しながら、彼は緩慢に寝処へと帰ってゆく。
 
 頭の中で音が鳴っている。侵襲性の政府広報。彼は闇の中で体を起こす。接近する低気圧についての情報が、委細を明らかにせずに報じられている。外を見ようとして窓辺に歩みより、乱雑に貼り付けられていた段ボールを引き剥がしていく。木枯らしが枯れ葉を巻き上げ、可視化された渦がそうして、うらぶれた通りを吹き抜けてゆく。
 床に転がったシリアルの紙箱。猫が描かれたマグカップ。痛み止めのガラス瓶。ディスプレイのアーム。脱ぎ捨てられた下着。いつもかぶっていたニット帽。ものどもが彼を包囲する。闇に浮かび上がった白いマフラーのことが、ほんの一瞬だけ脳裡をよぎる。
 遺品の処分のことを思って、おろおろと狭い部屋を見渡す。衣服は売るあてがついているし、本も写真も手許に残す。だから総数は多くならない。化粧品と、一足だけの靴がナップザックに収まる。コートを引っ掛け、姿見を瞥見して、冷たい空気の中へと歩み出す。
 コンビニエンス・ストアで着火装置を買い、包装を断ってポケットに収める。廃校の、立ち入り禁止の柵を乗り越えて、枯れ葉を踏みしだきながら前へと進む。先客の存在を示す焦げ跡が、真新しく焼却炉には残されていて、誰がやったのかと少し考える。
 厚い耐熱ガラスの扉から、焔の舌のふるまいが見てとれる。ねっとりと甘いような香りが隙間から漏れだす。煙突を覆う骨組みには蔦が絡まり、立ち昇る煙は突風に散らされる。ポケットに手を突っ込んで、転がっていたブロックに腰掛けてそれを見つめる。風が断続的に歓声を運び、彼は立ち上がって来た道を戻る。講義棟の外壁にへばりついたグリーンカーテンの残骸が、風に揉まれて分解してゆくのが見える。通りに出て、喫茶店を通り過ぎ、川の方へと歩いてゆく。
 山あいを足場にして空は広い。鈍色の固体のように見える雲塊は、変形を続けながら次々に流れ去ってゆく。橋の欄干の、粒子が積もったステンレスに肘をついて、彼はそういう空を見渡そうともするが、事象に比して感動は卑小にすぎるようでもあって、やるべなさに体をおこして遊歩道へと降りてゆく。道の向こうにベンチがひとつ、彼を待つようにして佇んでいる。

 住人の体臭が残る偽繭の中で、彼は公共終端の画面に触れる。
 メッセージはたった一度だけ、頭蓋の内側に響いて消える。差し出し人も送り先も記されていない、きわめて単純な短文だ。
「気をつけろ、同志たちはお前を疑いはじめている」
 体重を柔らかい内壁にあずけて、彼は呼吸を繰り返す。こんなことをいつまで続けるのかと彼は自問する。解答が示されないままに時間は経過する。
 冷たい水の中で、彼女は何を思ったのだろうか。