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「この奥に」

 座っていた女が囁いた。わたしは音を立てぬように歩を進めた。

   *

 依頼を受けたのは数ヶ月も前だった。ひとつの大きな仕事を終えて、わたしはまだその町の酒場に入り浸っていた。酒を奢りたいという者は絶えずあらわれたし、わたしの側にも喜ばしい申し出を断る理由はなかった。
 町にいくつかある酒場のうち、とりわけ小さなその店を訪れた晩のことだった。わたしはその日も常連たちに、遠い国での出来事を話してやっていた。
 わたしの冒険譚が佳境を迎え、酔いもほどよく回ったころ、その男はわれわれの前に姿を現した。
 扉が軋みながらゆっくりと開き、店内にいた幾人かがそちらを振り返る。
クローデルという男が来ているな」
 ゆっくりとあたりを見まわしながら、奇妙な訛りを含んだ声で闖入者は言った。並んだ赤ら顔に視線を走らせ、そうしてわたしに目を留めて、何か言いたげに口を開いた。
「わたしだ」
 目が合ってしまったからには仕方がなく、しぶしぶながらわたしは応える。
 ずいぶんと鋭い目つきをした、まだ若そうな細身の男だ。纏う衣服の生地は上質で、相当の値が張る品と映ったが、汗染みて埃にまみれた今はかえってみすぼらしかった。この地方のものではない厚手の素材が、慣れない長旅をしてきたことを物語っていた。
「話がある」
「悪いが」
 仕事のことなら後にしてくれないか。反射的にわたしはそう口走る。賑やかだった店内はいまや静まり返り、酔客の注意はもっぱら青年へと向けられている。場が冷めてしまったのは仕方ないとして、騒ぎになるのはごめんだった。
 泊まっている宿を教えろと言われ、仕方なく空き瓶のラベルを剥がす。走り書きした街路図を渡してやると、男は身を翻して店を出て行った。注文もしないでと店主が口を尖らせ、飲み直しにとわたしは注文を飛ばす。白々しさの混ざった歓声が上がって、一同は大袈裟なくらいに喜んでみせる。

 白みかけた空に密林の鳥たちが飛び立つころ、わたしは宿への道のりを歩んだ。
 待ち受ける依頼のことを思えば、どうにも気が進まないというのが正直なところだった。確かにふところは心もとないし、他に飯の種のあてがあるわけでもない。けれどああいう手合が持ち込むのは、ろくでもない話だと相場が決まっている。

「遅かったな」
「そう焦るな」
 あんたみたいな目つきをした奴が玄関先をうろつくのは、世間では営業妨害って言うんだぜ。ちょっとは宿にも気を遣ってくれよ。
 まわらない舌でそう言っても、男はぴくりとも眉を動かさない。まあ入れと部屋へと連れていき、「起こすな《DON'T DISTURB》」の札を廊下に出してから、わたしはベットに腰を下ろした。
「ところで」
 どこから来たんだとわたしは尋ねる。ずっと北から来たのだということくらいはわかっても、あのあたりの地勢には暗いのだ。
「失礼した」
 所属をこちらの言葉で表現しようとして、男はずいぶんと苦労した。組織の名前らしきものが並ぶ、長ったらしい北方語はわたしには聞き取れず、軍人かと聞くと違うと言う。地方長官の下で働く、ある部署の職員というのがどうやら近いようだった。
「それで」
 仕事の中身はつまるところ何なのか。
 治安維持だと男は応える。馬鹿にするなと怒りたくもなる。ゴミ拾いだとかそんなものでないことくらいは、わたしだって最初からわかっているのだ。
「あのなあ」
 詳細を教えてくれないことには受けようもないだろうに。
 申しわけないが詳しいことはわたしにもわからないのだと、はじめて困り顔を見せながら北方人は言った。
 スプリングを軋ませてわたしは立ち上がり、悪いが帰ってくれとドアを開ける。明らかに狼狽した様子を見せて、男は待ってくれとほとんど叫ぶように言う。
 声がでかすぎる。
 廊下に面したドアがいくつも開き、パジャマ姿が顔を覗かせる。あわててわたしは扉を閉め、わかったわかったと繰り返す。
 わかったから、もう少し静かにしてくれ。続きがあるなら聞こうじゃないか。
 報酬を弾む。それから、路銀も出す。と条件が並び、その後にかなりの金額が提示される。破格と言ってもいいくらいの額だ。
 そういうことなら話は別だが、むしろ怪しむべきではないかとも思う。詐欺ということはないにしても、明らかにまずい事態に巻き込まれかけているのではないか。
 せめて頭金を払えと注文をつけると、重そうな皮袋が小机に置かれる。紐解くと中身は山吹色にきらめき、何枚かの金貨が溢れだして音を立てる。思わず見とれそうになったところで我に返り、はっと顔を上げて双眸を覗き込んだ。
「やばくなったらいつでも手を引く」
 それでもいいなら引き受けよう。
 驚いたことに、返ってきたのは首肯だった。

   *

 業務内容は色々だ。
 土木工事のたぐいにも手を貸すし、喧嘩沙汰にも首を突っ込む。
 報酬と危険のバランスが問題で、それ以外の条件が判断に関わることはない。
 民族の誇りだとか絶対の正義に興味はないし、何か気に入らない奴らがいるというわけでもない。そういう動機をもって働いたり、人を殺す人間は少なくないし、結構なことだとは思うけれども、何かひとつの信条に肩入れするようなやり方は、とても危険で得るものが少ない。
 わたしにとって大切なのは、身の安全と退屈しない生なのだ。ほどほどの冒険は歓迎するとして、命を賭けた挑戦はごめんこうむる。

 太陽が昇りきる前に街を後にして、わたしたちは河の畔にある船着場を訪れていた。
 濁流はうねりながら一切を運んでゆく。木の葉、小枝、腐りかけた食べ滓。神像に死体、衣類に食器。ここで生きる者、ここで暮らす者を取り巻くすべて。
 係留された水上生活者たちの家々は、筏の上に組まれた小屋だ。漁をしながら旅人を運び、稼いだ日銭で足りないものを買う。身体を包む布とか、ここでは獲れない青果とか。そういったものを。
「やあ」
 日差しを避けて寝転がっている、赤銅色の肌をした男が目を開ける。裸の上半身には太い線で文様が描かれ、魔除けと豊漁を男に約束する。
「河口まで行く舟を探してるんだが」
 それならおれが行くよと男が言う。示された額は妥当なところで、わたしは前金を支払おうとして、金は依頼者が持っていることに気づく。
「おい、あんた。そういえばなんて名前だったっけ」
キーロフ。レフ・キーロフだ」
「よし、キーロフ。支払いを頼む」
 例の金貨入りの皮袋から、キーロフはそのまま数枚を掴み出して払う。不用心きわまりない行動で、事実船頭の眼の色が変わる。勘弁してくれよと頭を抱えたくなるが、出してしまったものは仕方がない。どうにも先行きが不安になり、所在なげにわたしは煙草に火をつけた。

 満載されたイモと一緒に、わたしたちは舟へと乗り込んだ。人一人がちょうどおさまるだけの幅に体をおさめ、水の滲み出す船底に腰を下ろす。
 毎度のことではありどうとも思わないが、キーロフは露骨な不満を表情に出していた。
「まさか一等船室が待ってると思ってたんじゃないだろうな」
 というか、来る時は何を使ったんだ。尋ねるとなんと陸路を辿ったと言う。この地方で河川交通を利用しないというのは愚の骨頂で、かなりの日数と費用を無駄にしたことになるのではないだろうか。
「さて、出るぞ」
 船頭の声とともに舟はゆっくりと岸辺を離れ、大河のただ中に、巨大な流れへと次第に取り込まれてゆく。
 川面をゆく舟は色とりどりだ。下流域からの荷物を持ち帰って遡行してくるものもあれば、わたしたちのような旅客を乗せた舟、もっと上流で伐り倒された丸太で組まれた筏もある。用材は家になり、舟にもなって、水上生活者たちの住む筏にも使われる。ときおり魚が跳ね、鳥が目を光らせて、河が養う命の豊かさに思い至る。
 好奇心の強そうな目であたりを見回すキーロフを見て、これなら長時間の移動にも退屈しないだろうと安心する。きっと見たもののいちいちをきちんと覚えていて、故郷の皆に語って聞かせるのだろう。

 幾度かの休憩をはさんで舟は進み、川幅はいまやとてつもなく広い。はるか遠くの対岸は霞んで、あたりはさながら海のようだ。
 もう沖に出たんですか。キーロフは真顔でそんなことを尋ねる。舐めてみなと水面を指すと、真面目くさった顔のまま指先を浸し、真水であることを確かめて変な顔をする。
 水平線には没さんとする陽が映り、水は燃えるように真っ赤に染まっている。夕方の狩りに赴く水鳥の大群。一斉に鳴き出す水棲生物たち。静謐とはほど遠いそんな風景はしかし、同乗者の感性のどこかに響いたようで、鋭い目は日没を見つめたままじっと動かない。
 まさか泣いているんじゃないだろうな、わたしは頬をちらりと窺うが、迫る夕闇は一切を不明の裡に呑み込んでゆく。

   *

「一五〇〇? 話にならないな、次行くぞキーロフ
 不満そうに呼び止めようとするキーロフと船主を無視して、わたしは港の雑踏を進んでゆく。河下りの舟を降りて、わたしたちは大洋を渡る船を探していた。大陸から大陸への旅。今度はイモの隣というわけにもいかず、動く金額も桁違いだ。キーロフときたら相変わらずの世間知らずで、相場のことなんか考えちゃいない。ほいほいと言い値で払おうとするところを何度止めたかわからない。
「ひどいじゃないか、人の良さそうな船主だったのに」
「誰だってカモにはにこにこするさ。特にあんたみたいな手合にはな」
 その鋭そうな目は節穴か何かなのか。それともあんたの国は公僕に浪費を推奨しているのか? 矢継ぎ早に言ってやるとキーロフは黙り、ただわたしの後をついてまわるようになる。
「このボロ船で四〇〇? ありえないね。三〇〇でどうだ。三五〇? まあ、仕方ない。手を打とう」
 キーロフがまわったきらびやかな客船すべてを袖にして、わたしが選んだのは古い連絡船だった。半ば骨董のようだが作りは確かで、信頼の置ける船だった。
 またもやキーロフは皮袋を取り出す。薄汚い乗客たちがこちらを見ている。あの時やめろと言っておくんだった。今更ながらわたしは後悔し、こってり文句を言ってやらないとと心に決める。

 われわれの船旅は順調とは言いがたかった。沖合に出るのを待ち受けていたような大時化に、デッキはひどく傾いてはわれわれを揺さぶった。蛆の湧いたビスケットをかじりながらわたしは耐えたが、食事にも揺れにもうんざりした様子のキーロフは青くなり、不機嫌そうにうずくまることがほとんどになった。
「おい、酔ってるのか?」
 我慢しないで吐いてきた方がいいぞと声をかけても、応えが返ることはなかった。妙なところで線が細いなとわたしは呆れ、愛想を尽かして放っておくことにした。
 黴臭くて静かな船室で、わたしたちはお互いに押し黙って時間が過ぎるのを待った。なんでこんな奴をよこした、姿の見えない依頼人にわたしは腹を立て、それ以上に、なぜだかわからないがわたし自身に腹を立てていた。

 翌日、わたしは真っ青になったキーロフに起こされた。どうした、吐くなら船縁に行けよとわたしが応じると、そうじゃないと深刻そうにキーロフは言う。
「金がなくなってるんだ。夜のうちにやられた」
 おい。ちょっと待て、つまりそれは。
「あんたの報酬の全額と、この先の路銀だ」
 乗客を全員呼び出せ。次の瞬間わたしは叫んでいた。

 ずらりとならんだ後ろ暗そうな面を前に、わたしはキーロフの通行証を掲げる。
「お前たちだってこれが何かぐらいは知ってるだろう。ここで白状すれば許してやるが、隠し通そうものなら北の治安警察がこの船に乗り込むことになるんだぜ」
 何人かが不安そうに顔を見合わせるが、それだけだ。埒が明かない。
 金貨の詰まった皮袋だ。そう簡単に隠せるものでもない。わたしは船長に手荷物検査を提案して認められ、ひとりひとり調べてまわることになった。
 やる気のなさげな手つきでわたしは鞄を開き、小包を解いて中身を検めていく。もちろんこの中から見つかることなんて期待しちゃいない。問題は……。
「あった!」
 前もって船室を巡らせていたキーロフが歓声を上げ、わたしは逃げ出そうとする男の腕を掴む。
 船内を騒がせた捕物の後、海の方も嘘のように静まり返って、われわれは快適に残りの日数を消化したのだった。

   *

「ここまで来たら、後は街道を北上するだけでいい。一週間と少しでぼくの町に着く」
 港からほど近い都市の宿屋で、地図を指しながらキーロフが説明する。ホールの暖炉にはすでに火が熾り、投げ込まれた薪が音を立てて燃える。冬の支配する領域に、わたしたちは足を踏み入れたのだ。
 そこが旅の終点なのかとわたしは尋ねる。そろそろ仕事についてもっと細かいことを教えてもらってもいいころだった。
「そうではなくて、きみの目的地はその先の村だ。ぼくはそこまでは案内しない。村の人間がしかるべき方法で、きみを先導してくれるはずだ」
 相変わらずはっきりしない言い方だが、とにかく村に行ってなにかしらを片付ければいいらしい。それはならず者の集団かもしれないし、道を塞ぐ巨大な岩かもしれない。村人はわたしを歓迎するかもしれないし、あるいは……。
「ところで」
 せり出したマントルピースの上に並ぶ木の細工の方を向いて、キーロフは話題を移そうとする。鳥や獣を象って細かに彫られたそれらを、彼は何故だか気に入ったらしい。 
「ほら、ここの嘴なんてどうやって彫ったんだろう……」
 ふくろうの置物をわざわざ手にとって、キーロフは同意を求めてわたしの目の前にそれを置く。
「あのなあ、それのことなんだが……」
 並んだ置物はことごとくわたしの作品だということを説明するのが、ここまで恥ずかしいことだとは思わなかった。
 ここはわたしの定宿になっていて、手慰みに彫った細工物を店主がうれしがって並べる。こんなものまで彫っただろうかという品もあり、わたしとしてはどうもやりにくい。
 素晴らしいじゃないかとキーロフは息をはずませる。それほどのものかと改めて一瞥をくれてやる。
「わたしのはつまらないさ、写真みたいなもので……」
「なんて滑らかな断面なんだ。何で磨いたらこうなるんだ?」
 わざわざ含みを持たせた謙遜を聞こうともせずに、キーロフは細工をしげしげと見つめて声を漏らす。本当は磨いてもいないのだが、いちいち説明するのもばからしかった。
「こういうものが好きなのか?」
「彫刻のことなら、好きと言ったっていい。癖みたいなもので、好き嫌いじゃあないが」
 あんたも何か彫刻をやるのかと水を向けてみる。わたしの話ばかりの流れはどうにも都合が悪く、それに実際興味もあったのだ。
「彫刻というわけじゃないんだけれど……」
 キーロフの生家ではもっと実用的な木工が盛んだったという。
「長い冬の間。野外でできる作業は限られている。それでぼくたちは木工をやるんだ。盥にいっぱいお湯を沸かして、そこに木を浸すと柔らかくなる。好きなように曲げて形をつくるんだ。しなやかな材木からはいい椅子ができる」
 そうやって椅子を作ったり、修理したり、腰掛けてお茶を飲んだりしながら、春が来るのをじっと待つんだとキーロフは言う。
「ただ待つのかい?」
「ああ、待つんだ」
 暖炉の中で燃える薪が崩れて、かすかな音が広がった。部屋を満たす揮発した植物油の匂いが、その時は妙に心地よかった。

   *

「それじゃあな」
 遠ざかっていく姿に向けて、わたしは精一杯手を振る。キーロフが務める町、この地方の中核都市から、北へと伸びる未舗装道路、雑貨を運ぶ荷馬車に乗せられて、わたしは終着点に向けて出発した。
 険しくなっていく山稜と、せばまり悪化する道路事情が、これから赴かんとする村の様子を物語っていた。無口な御者は何をも語らず、同行者を失ってわたしはいささか不安になった。
 粗末なパンを水で流し込み、固くて冷えきった荷台に横たわって夜をやりすごし、この仕打ちがいつまで続くのかといい加減にうんざりしてきたころ、御者が唐突に到着を告げた。
 荷降ろしをはじめた御者を尻目に、わたしは降る雪に霞む家々へと向かった。朦朧とした白い背景の中に黒い染みがひとつあらわれ、やがてそれが待っていた村の者だということがわかった。目を伏せ、口をすぼめながら、彼はようこそと告げた。怪しい文法とひどい訛りには辟易したが、それでもこの村で聞ける一番ましな通用語なのではないかとわたしは思った。
 ゲストハウスとは名ばかりの丸太小屋に通され、わたしはようやく一息ついてベッドに身体を預けた。すきま風がひどい壁ではあり、水平も怪しい床ではあったが、それでも荷馬車での数日を過ごしてきたばかりのわたしには、外界と隔てられていることがありがたかった。
 あくる日、弱々しい光を投げかける太陽が昇りきる前に、例の村の者が戸口にあらわれた。すわ仕事かとわたしは色めき立ったが、まずは諸々の説明を聞かせるというようなことを村人はぼそぼそと喋った。
 わたしたちは小屋を出て、集落の中心へと歩いていった。ゲストハウスと同じような丸太小屋ではあるが、群を抜いて大きく立派とも言えそうな屋敷が見え、わたしはそこに通されることをなんとはなしに予感した。
 応接室の役割を充てられた部屋で、わたしはずいぶんと待たされた。向こうの部屋からはひっきりなしに村人があらわれ、わたしにはわからない言葉で何度も耳打ちし合った。やがてお互いにうなずいたかと思うと、わたしの方を見てこちらに来いと手振りをして見せた。
 踏み入った部屋は寝室のようだった。横たわる人物の姿を見て、むしろ病室と呼ぶべきなのだろうかとわたしは考えた。
 長く伸びた髭はわずかに威厳を残し、瞳にはまだ知性のきらめきが残ってはいたが、まぎれもなくその老人は年をとりすぎていた。村長だと案内の村人が言い、わたしは敬意を込めて挨拶した。驚いたことに完璧な通用語で、村長は長旅をねぎらう言葉を口にした。

 椅子をすすめられてわたしは腰掛け、村長の枕元で話を聞いた。任される仕事の全貌を、ようやくわたしは知ることになり、その発端である十年前の事件を、村長は克明に記憶していた。
 ひどい吹雪の晩だったという。ある急斜面の土地で雪崩が起こり、まだ達者に動けた村長は様子を見に行った。
「あれほどの現場を見たのははじめてだった」
 まばらに生えていた樹木はすべてなぎ倒され、雪の中から一組の母子が発見された。手を繋ぎ合って倒れ、母親の方は息子をかばうように身をかがめていた。村長は人を呼び救命を行ったが、ひとり息子だけが息を吹き返した。
「何週間もの間、あれは目を覚まそうとはしなかった」
 村長の家のこのベッドで、少年は昏々と眠り続けた。そうして目覚めた時、彼は常人にあらざる能力を手にしていた。
「あれはひどく凶暴になった。村の者に当たり散らし、ついには……」
 少年には父がおらず、そのためか母子は元々村で孤立していたとも言う。行き場のない怒りと悲しみは、やがて際限のない暴力という形で発露し、ますます少年を孤独な存在に追いやった。
「それでも、あれはわしの言いつけだけはよく守った。少なくともわしの目の届くところでは、あれは悪事を働こうとはしなかった」
 村長は狂犬の手綱として、村の秩序をぎりぎりのところで維持してきたのだと言う。だが彼の命はいまや尽きようとしている。
 わたしの役割はここに来て明確だった。小屋へと戻って、わたしは悪夢にうなされた。

 お呼びがかかることはそれからというものなかった。燃料の焚き木とわずかばかりの食べ物だけが、毎日そっと差し入れられた。
 そうして変わり映えのしない日が幾日も続いた。雪は夜も昼もなく降り積もり、わたしは外出することもできず閉じこもっていた。戯れに木切れを削っては、すべて火にくべてしまうことを繰り返した。なにもかもがむなしく感じられた。ひょっとしたらわたしのしてきたことだって、こんなふうに削っては燃やしての繰り返しだったのかもしれなかった。何の喜びももたらしはしない、無意味な仕事に無意味な能力。残るのはただ形のない灰と、窓の外を埋める雪だけだった。
 村長がわたしを呼んでいると、ある日人づてに言づけがあった。そうしてふたたび、わたしは屋敷に向かった。

 前回の訪問から間を開けていないにもかかわらず、病状はいっそう深刻に見えた。暖炉の火勢はますます強く、それがかえって部屋の主が弱っていることを物語っていた。
 老人がもうまもなく死のうとしていることは、誰の目にも明らかだった。縮こまった体をベッドに横たえ、ときおり顔筋を歪めながらも、老人はなんとか言葉を繋ごうとした。わたしは耳を寄せて、声になろうとする音を拾わねばならなかった。
「あれは」
 あれは本当ではなかったのだと老人は言った。意味をつかむのに時間がかかり、わたしはようやく誰か他のものには話したのかとたずねた。老人は力なく首を振った。
 もっと詳しい状況を知る必要があった。あらいざらい全てを、長年溜め込んだ悪いものを吐き出すかのように、老人は事細かに言葉を吐いた。わたしはその一切をどこにも書き留めることなく記録し、そそくさとその場を離れ密かに復唱した。その晩村長が息を引き取ったとの報がもたらされたが、まったく驚くべきことではなかった。
 こうして必要なものは出揃い、一刻の猶予も許されぬ状況が訪れた。緘口令の効力はもって数日といったところだろうし、どのみちあの男が動き出すであろうことは目に見えていた。わたしは入念な計画を仕上げ、それを実現すべく外へ踏み出す。

   *

 村外れの山奥、起伏の激しい斜面の中腹に、へばりつくようにしてその小屋は建っていた。まるで何かの罰のように見え、そうした印象は実際大して外れてもいなかった。
 日没後かなりの時間が過ぎたころ。小屋の明かりだけを頼りに、足場に気をつけながらわたしは歩いた。すでに地形を隅々まで把握し、目をつぶっていても歩けるくらいになってはいたが、積雪が刻一刻と状況を更新する今、そうした机上演習には限界があった。
 小屋の軒先にはささやかな照明がしつらえられ、入り口の脇には女性が腰掛けていた。まだ年若い、美貌のその女が、対象とどのような関係にあるのかわたしには判断つきかねた。ただひとつ、敵ではない。という情報だけがもたらされていて、それでわたしには充分だった。
 近づくわたしの姿を認め、それが意味するところを了解したのか、女の顔を憂いが走った。けれどそれは一瞬のことにすぎず、もしかしたらわたしの見間違いだったのかもしれなかった。
「この奥に」
 座っていた女が囁き、わたしは音を立てぬように歩を進める。暗い、照明のひとつもない廊下の先に、ひとつだけ明かりの差す部屋が見える。旅の終わる場所へとわたしはやってきた。それがどのように終わるにしてもだ。
 部屋の奥にうずくまる人影があり、背を向けて書物を読んでいるのがわかる。ここからは見えないランタンの光が、人物の影をこちらへと投げかけている。
「来たか」
 若い男の声がそう言った。

 そして男は振り返った。
 ランタンではなかった。赤熱する右手から放たれる光が室内を照らし出し、乏しい調度からは濃い影が伸びる。
 瞬間、わたしはぶざまに数歩あとずさる。射程はおおむね数メートル。ここは狭い。男は近すぎる。
「くたばったか、爺が」
 右手をローブの中に収めながら、男は何もかもわかっているかのようにそう尋ねる。そうだとわたしは応えるしかない。ローブの前を閉じようとする左手には指が三本欠けている。凍傷で切るしかなかったのだろうと咄嗟に考える。
「それで」
 おまえはおれに何をしてくれる。
 まだ手の内を見せるわけにはいかない。男の左手の空間を目掛け、わたしは擲弾を放る。

 それから数秒のうちに、能力の行使は進行する。
 ローブに包まれた男の右腕が、覆いを跳ね除けてあらわにされたかと思うと、床面へ落ちて幾度か跳ね返り、爆裂しようとする擲弾の破片のいちいちは、熱の流れに包まれてひといきに蒸発する。腕のひとふりで制御は行われており、おそらくはこれがいくつでも同じことだろう。見事な防御であり、同じことが出来る者をわたしは数人のみ知っているが、数秒という時間はわたしにも平等に、逃走の機会として与えられた。
 白の装束は雪原に紛れる。男の放つ熱気は雪を溶かし、立ち昇る湯気が彼の位置をあからさまに教える。わたしにとって極めて有利な材料ではあるが、敵の正確な輪郭をつかめないという点で厄介でもある。
 充分に距離をとって窪地に身体を臥せ、そこが申し分ない地形であることを確認する。わたしは呼吸音を抑え、身体の震えをしずめて、ただ死体のようにじっとそこで待った。
 ただ待つんだ。キーロフの声が聴こえるようだった。言葉どおりにわたしははやる気持ちを殺した。男は着実にこちらに近づいていた。その足元に意識を集め、予定されていた地点に至るのを待つ。
 そうして、時は来た。ぎりぎりの距離で能力を放つ。深く、正確に、わたしは男の足が触れる地点を穿つ。雪の層を貫き地盤に至るまで、能力は深く深い孔を作る。男の下半身が見えなくなった。彫刻家の才能。使用条件は対象の正確な把握。
 咄嗟の隙を無駄にはしない。傍に積もった雪山を彫刻し、村長の遺言を基に現場を再現する。これが何なのかを男は知っていて、ひと目で真実を察するはずだった。
 氷像の出来はまずまずだった。横たわる母子は引き離され、男の子はたったひとりで極寒に晒される。我が子を見棄てて逃げようとする母親、彼女に向かって力なく伸びる腕、その掌から放たれる熱が、彼を死から遠ざけ続けている。
 なんだこれは、明らかに狼狽えた様子で男が尋ねる。熱を練ろうとしてうまくいかないのがわかる。精神的外傷がもたらす一時的な機能不全。更なる時間がわたしには残される。
「おまえは」
 おまえははじめから独りだった。おまえに温もりを与える人間などいたことはなかったのだし、だからおまえは独力でそれを獲得せねばならなかった。その熱だってもう消える。わたしが奪いに来た。世界はおまえに、おまえのような者に、何をも所有させはしない。おまえのような人間に与えられるのは、ただ静かな死、それだけだ。
 嘘だと男は叫ぶように言う。輪郭の把握がうまくいかず、わたしは男を直接攻撃できない。陥穽から逃れようと男はもがき、熱波が盲滅法に撃ち出される。男の右肩に炎が芽吹き、すぐさま消されるが肌は隠しようがない。
 刳る。動脈が傷つき、勢いよく出血がはじまる。激痛に身をもだえさせ、ついに男は斃れる。充分に弱っているかどうか定かではないが。どのみち助かることはない。

 死闘の現場はいまや静まりかえり、男の荒い呼吸だけが静寂をかき乱していた。
 ひとつだけ、確かめておきたいことがあった。まだ息はある。今ならまだ。
 死のうとする男に、わたしは近づいていった。血赤から湯気が上がっていた。失われゆく体温。
「寒い」
 そうだろうなとわたしは言った。ひと呼吸ごとに、身体から熱が零れだしていくのがわかるようだった。
「おまえは」
 おまえは本当に、一度たりとも疑わなかったのか?
 そうだと男は息を吐くように答えた。

 雪が降っていた。

〈了〉