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文体についてほか

 人間には――それもある種の人間には――小説を書かずにはいられない時期というのが必ず存在しーー当然だ。だってそれはある種の人間に限って訪れるのだから――存在し、そして僕にとってはそれは今なのだと、そう僕は信じている。この文体はもちろん、村上春樹から――たぶん、一階堂洋からも――借用してきたもので、僕自身のものとはとても呼べないけれど、それでも僕らは僕らの手の内にあるものをただ強く握りしめて、そうしてそれを武器として前途を切り開いていかねばならないのだとそう信じるのだから、ともかくも書くことをやめはしない。
 文体について、僕はまたこうも考えている。どこかに――それこそ小説の中に――読み上げた文章のそのスタイルの水たまりから、書き手の姿を汲み出すことができるような力を持つ人物がいたとして、彼はきっとこんなふうに考えるのではないかと――そのような人物はたぶん、現実にも存在するのだと思う。現実というのがつまりあなたの主観を意味し、あなたというのが無数の、不特定多数のあなたを意味するかぎりにおいては。そしてまた、そうした人物は今ここに存在するのだ。僕自身を指している。今現在の僕はこう考えている。僕はこの混雑する意識の往来の中で、必ずや目的の人物に辿りつけるはずだと。いかなる手段を用いて? 独特の癖から。そうした癖はまた主人の性格、つまりは判断の類型、判断の類型を打ち出す雛形を、明らかにするものなのだと。そう考えているのだーー彼はきっとこんなふうに考える。この文章――つまりは冒頭から連なるこれ―ーこの文章を書いた人物には確固たる自信というものがない。確固たる自信というものがたいていの場合あやまりであるからには、それはまっとうな状態であるとも言えそうだが、この人物についてはそういった好意的評価は禁物だ。彼あるいは彼女は確固たる自信を持たぬにもかかわらず、もちろん、持たぬがゆえに、安定を外注しようと躍起になっている。救われるはずもないのだ。それは鼻先にぶら下がった人参であり、追えば逃げてゆく蜃気楼そのものなのだから。僕はもちろん、安定というものについて話しているのだけど。
 小説を書くために、我々は多数の意識をエミュレートせねばならない。またたいていの場合、そうしたエミュレートに先立って、まず意識の群を統御する強力な人格を用意する必要がある。それもまた架空のものだ。二十一世紀初頭の日本において「キャラ」と呼ばれ、分人のヴァリエーションとして捉えられもした……。