やかんの上の日常

 少年は電算機の中を走っている。踏みしめる地面が、感じる気流が、運動する筋肉が実在のものであることを、一度たりとも疑ったことはない。彼は走り、走るが、その結果が現実へと反映されることは――私たちがふつう思い描く範囲では――ない。ほんとうのところ結果もまた実在しはするのだけれど、それは原因と同じように、電磁パルスとしての実在なのだ。

 かれを構成する要素が充分に多く、電算機が行う計算も充分に多くなるがために、筐体は相当量の熱を排出する。熱の大部分は入り巡らされた水管の中へ、内容物たる流体の中へとうつってゆき、そうして液体に閉じ込められたまま電算機が置かれた施設を出てゆく。

 先に述べたとおり要求される演算は充分に複雑なものだ。そしてこの時代、電算機を小型化する技術はなぜだか進歩していない。おそらくは心ある人々の尽力による大戦の回避が、そうした事態を引き起こした。要求はある局面では過小に、ある局面は過大に、行われた。結果として、彼らはできあいの技術で少年を走らせるしかなかった。

 ともかくも熱々の流体はこうして、施設の外部へと流れだした。やがて配管は別の、電算機ではない設備へと引き込まれてゆき、そこで発電機のタービンを回転させる仕事を行うことになる。つまりはこうした手続きをへることで、電算機の排熱がタービンの回転に寄与する。回転はもちろん起電力をもたらし、施設の近隣の家々へと供給される。こうした過程と直接の関係はないものの、そうした家々のひとつに、中等教育施設へと通う少女が住んでいる。

 少年は半永久的に走り続ける。走り続けることそれじたいに必然性はまったくない。彼は彼を走らせているこの世界のメカニズムについて、その一切を知ることがない。中枢はただ運動と感覚にのみ振り当てられる。

 一方で、市街の人々、電算機の排熱によって命を繋ぐ人々は、そうした事実のすべてを知っている。先の少女もまた例外ではない。

 年齢相応に聡い彼女はときおり、この奇妙な構造について考える。なぜこのような非生産がまかり通るのか? 電算機を駆動する電力の由来は、なんのことはない化石燃料だ。逓減のことを思えばこれは単なる浪費であり、伊達や酔狂によってのみ為されうるたぐいの事業ではないか。

 けれどもまた、こうも考える。わたしたちの生活はこうして、つねにタービンを回すやかんの上にあるのだと。実体のない少年の、流れる汗の一滴を経由して、絶滅した植物種の死骸、それを解体した年月に至るまで。思い描くとき彼女の視線は、少しだけ遠く、いつもより遠くへと向けられる。

 都市の設計図を前にして、心ある人々は言うのだった。われらが誇るこの想像の力にしても、敷衍の鍵をなくしては満足に機能しない。重力の発見は果たして、彼の人が落下する果実から天体を思ったがゆえに成し遂げられたのだ。

 人類にいまひとたびの鍵を、踏み台を、それほどの大義のためならば、多少の逓減など惜しくはないさ。もとより世界をましにするのは、そんなに簡単なことじゃないのだから。