一円


   一円

 眺望はいつでも素晴らしかった。
 静止しているかに見える凍てついた連峰に焦点を合わせると、強風が粉雪を巻き上げているのがくっきりと見てとれる。昨日と変わらぬ荘厳な景色。色収差も歪みも少ないカール・ツァイスのレンズは、今日も存分にその機能を発揮している。
 精巧な機械装置というのは、なにものにも替えがたくよいものだ。いついかなる時でも頼りになるし、裏切ることなど決してない。
 そうして満足げに双眼鏡を下ろすと、彼は腰のスキットルから水を少し飲んだ。これも愛用の品で、もう十年も前に買ったものだ。残り少ない数滴の甘露を、味わうようにして口に含む。
 ふたたび空いた両手で双眼鏡を掴み、山肌を頂から麓へと、舐めるように観察しながら、彼は思いを巡らせた。
 不変であるかに見える巌にしても、微視的には変化を続けているのだ。私のように人の上に立つ者は、そんな些細な変化にも気を配らねばならない。
 麓にかけてだんだんと薄くなる氷雪の層が、美しい階調を作りだす。
 気配りというのは人事についてもそうだし、製品の管理についても言えることだ。私は自分の注意力に自信を持っているし、そうした事実はまた我が社の実績によって、証明され続けてきたはずだ。
 露出する岩肌の頑なさに目をとめ、彼は微かに笑みを浮かべる。
 実際、私はうまくやってきた。私には才覚があり、人脈にも恵まれ、事業が傾くことは一度としてなかった。
 岩肌の上で何かが光る。
 実際、恵まれてきた人生だったのだと思う。計算機科学の分野でまず成功を納め、それに飽きたらず創薬事業に乗り出した。メディアへの露出も多かった私には、多数の投資家が味方してくれた。
 つまみを捻って倍率を上げると、光を返した何かの輪郭が少しずつあらわになってゆく。
 最小限の出費で最高の成果を得ること。単純なセオリーを忠実に実行へと移し、またたくまに業績を延ばしたのは間違いなく私の手腕によるものだ。同業に手を出した他社には、その事業が持つ革新性に見合うだけの覚悟が足りなかった。私は妥協することなど決してなかった。自分についてももちろん、他人についてもだ。
 漆黒の岩の上で光を振り撒いていたのは、露出したジェラルミンの滑らかな肌だ。
 反感を買うこと数限りなかったのはまた事実だ。だが激しく楯突いてきた彼らにしても、最後には私を褒め称え、感謝することになった。治療を待つ患者のためにすべてを捧げてきた自負はあるし、我々が創りだしてきた新薬が救った命は数限りない。
 部下たちにしても、働きに見合うだけの待遇は保証してきたはずだ。聖職に就くものとしての自負をもてとは何度も繰り返し言い聞かせたし、開発にウエイトを置いたがために多少の我慢はしてもらったが、納得ずくの決定だと信じている。
 倍率を戻し、鏡筒をほんの少し下へ。
 四散した構造材の中央には、原型を留めないまでに損壊した航空機が見える。
 しかしながら、流石の私も、少し考えを改めねばならない時が来たようだ。
 社の命運をかけて開発した新薬の治験は、海を隔てたあの国で真っ先に行われることとなった。順調に進む恢復を見届けて、彼と重役たちは本土への便に乗り込んだ。分刻みのスケジュールが彼らを急かし、ビジネスジェットは悪天候をおして飛び立った。
 機体と操縦士への彼の信頼は、手痛いしっぺ返しによって贖われることとなった。墜落は人格者で知られた副社長の命と、通信装置のすべてを奪い去ってゆき、残された彼らは山麓での野営を余儀なくされた。少ない食料と飲料水。山肌を転々としながら救援を待つ中で、一団のあいだに漂う空気はだんだんと険悪になってゆくように感じられた。
 やはり、このあたりで一度行動を起こさねばならないだろう。
 決断した彼は今度こそ双眼鏡を下ろすと、皆が待つキャンプへと歩いてゆく。
 継ぎ接ぎされた資材で作られたテントを覗くと、車座になった面々が彼の顔を窺った。
 なにやら議論が行われていたのだろうか?
 感じられた多少の違和感と、ふたたび鎌首をもたげてきた飢えを押し殺し、彼は精一杯の謝意を伝えた。君たちの勝手な振る舞いに立腹したことは幾度なくあったが、私にしても少々強引に過ぎた方法でやってきたのだと思う。こんな状況になってようやく反省する気にもなった。一円に笑う者は一円に泣くとも言うが、これまでの些細な諍いは水に流して、対等な立場でこの危機を乗り切ろうじゃないか。

   ***

 一同は意外なほどすんなりと、社長の言葉を受け入れた。温かい笑顔が向けられ、いつもより多く食料が分け与えられた。口いっぱいの食事とともに味わう満足感に、彼の瞳はゆっくりと閉じられていく。

   ***

 彼は、知らなかった。
 墜落の直前、エンジニアの一人が機上で、被験者の病態急変の知らせを受け取ったこと。
 結果的に死をもたらしたその症状は、社内で再三指摘されてきた副作用と酷似していたこと。
 緩衝材として働いてきた副社長の死後、社員による会合が何度ももたれてきたこと。
 そうしてその日ついに、決議が成立したこと。
 彼はあまりに鈍感に過ぎ、
 支払うべき対価を安く見積もりすぎていたということを。

   ***

 解体はしごくにこやかに行われた。

   了