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水子供養シリーズ

 思い出さねばならない残された時間は多くないのだ

 うす暗い。青味がかった鼠色の光が満たす。壁に接した小さな机。焦げ茶。鈍く光るニス。屈んだ身体に触れるぬるくしめった空気の塊。首を捻って、流れてくる方向に顔を向けようとする。頚椎の違和感。窓を見る。机と似た風合いの用材で作られた田の字の枠。嵌め殺しのガラス板。半分ほど開いているが、外は満足に見えない。腰掛けていたベッドから立ち上がろうとする。金属疲労のためだろうか、スプリングが軋んで音を立てる。重い窓を押し開きながら顔を出す。三階か四階にいるらしい。眼下の通りを行き交う車の色。合成塗料。小雨が降っている。

 こっちじゃないのか……? ならば……

 窓を背にして、身体の主人が振り返る。背中に数滴の水滴がかかる。ドアへと通じる通路には影が指している。視界は上へ動き、時計が入り込む。白い秒針がひととき見え、すぐに失せる。

時計。

 鍵だ。

 分針の先端に注意。きわめて速く回転している。先端を見ていては文字盤は読めないので、輪郭さえもあやしくなってくるだろう。思いだせ。解凍をはじめろ。

 

 解凍。凍結されていた情報が解き放たれ、こちら側の中枢神経系の中で活動をはじめる。

 ぼくは思い出す。

 

「頭を動かすなよ、最後にもう一度確認事項だ」

 技師の声。かれはぼくの同僚で、

 

 脳には過去に感じられたすべての感覚質の痕跡が残っていて、それらの再生により過去への没入が擬似的にではあるが可能である。没入の精度向上のためには、電磁気的に脳を過去の状態に近づける同期処置が不可欠であるが、この処置により現在の記憶は混濁する。記憶混濁を抑えるために生み出されたのが神経対位法である。これは同期処置によって意識の全体像を過去のそれへと近づけながらも、没入に際して必要なだけの記憶を保存するためのセオリーで、情報の凍結による解凍のふたつの手続きによって完成する。神経対位法の理論においてが果たす役割とは、同期処置によって生じる記憶混濁に際し、没入を遂行するために必要なだけの情報、すなわち神経対位法そのものの内容から没入の目的にいたるまでの詳細を遺漏なく保存し提示することだ。

 

 知りたいのはまさしくそれ、没入の目的なのだ。

水子供養シリーズ

 ガラス越しの法務官が手を振る。外部者用白衣の襟元から覗く、黄色い樹脂製の管理タグ。彼女がなんとか微笑んで見せると、法務官も強張った表情を解いて、心配ないと何度か頷く。
 忙しく動きまわる数人の技師に、壁の向こうの姿は隠される。
 至るところに塗られる消毒薬の臭いが鼻孔を満たし、それもチューブが挿し込まれると判然としなくなる。侵入する気流の感触は快いものではなく、彼女はほんの少し顔を歪める。技師は意に介することもなく、予定されていた作業を終えて、そうして彼女を覗き込みながら告げる。
「さあ、目をつぶって」
 弛緩してゆく自分の身体を、身体を支持する冷たい金属を感じながら、彼女は言われたとおりに瞼を閉じようと試みる。視界に入ったふたりの人物の像が、じわりと輪郭をぼかしながら背景に溶け込み、やがてすべての光景に幕が、ゆっくり、ゆっくりと降ろされてゆく。

 潮の香に彼女は振り返る。蒼穹と、オリーブのしがみつく岸壁を額縁にして、眼下には葡萄色の海原がのたくっている。昼下がりの入江。波はこの上なく穏やかだ。
 立っていた高台から砂浜に向けて、けもの道が蛇行しながら下ってゆくのが見えるが、道にも浜にも足あとは残らない。風だけが丈の高い草を揺らして吹き抜け、淡く染まる両頬を交互に撫でる。
 視線は水平線に注がれたままだ。彼方に見える点が少しずつ拡大し、迫り来る船の威容が少しずつ明らかになってゆく。ぐったりと垂れ下がった白い帆、漕ぎ手の頭のひとつひとつ、喫水線に描かれた、見覚えのない文様のいちいち。
 帰ってくる、彼が帰ってくるのだと、根拠のないままに彼女は悟っている。巻き上げられる砂塵にも、擦過傷に滲む血にすら気をとられることなく、急勾配を駆け下り、浜の砂を巻き上げて、よろめきながらも波打ちぎわに駆けよる。
「ウリクセース」
 気づくことなく彼女は口走っている。

「お目覚めですか」
 先ほどとは別の技師の声が聴こえ、閉じていた瞼をおずおず開く。薄闇に体を起こすと照明が点灯し、取り囲む人々の影がくっきりと落ちる。
「ここがどこか、わかりますか。あなたが誰かも」
 淀みなく彼女は返答を作る。息を吐く音が耳障りに響き、何人かが部屋をあわただしく出ていくが。質問は止むことなく矢継ぎ早に繰り出され、最後には彼女はひどく疲れてしまう。

ビギニング

 公共終端に目をやると、明滅がメッセージの到着を静かに示した。そのまま内容を読むことなく画面を落としてしまうと、彼は座っていたベンチを後にして歩きだした。

 川沿いに散り散りになって生える木々はもうすっかり落葉して、遊歩道はくすんだ暖色で満たされていた。薄く広がった燻煙に混ざって、どこか遠くで焼かれる芋が匂った。
 ここ数日のことを思い出さねばいけないような、強迫的な感覚に彼はとらわれていた。感覚は拭い去ることの出来ない、紙上に落とされた一滴のインクのように、心裡に染みついて消えることがなかった。
 コートのポケットに収められた公共終端に、歩きながら彼は触れようとし、辺りを見回してはそれを諦めた。そうした仕草は何度も、次第に間隔を狭めては繰り返されていった。
 昼過ぎで、少なくない人々が辺りを行き交っている。大きな犬に引きずられるようにして、宍色の上着を着た老爺が彼を追い越してゆき、関節の浮き出た子供らが続く。走り去った彼らの行く先、彼の視界の中央には、朽ちようとする巨大な橋が入る。
 欄干をくぐって伸びる遊歩道に、躯体がぼんやりと影を落としている。展開された黄褐色の簡易居住施設は、体を屈めて眠る住人たちを包みこみ、さながら繭のように橋桁から吊り下がって、幅広の支柱に沿って並んでいた。
 そうした住居のうちのひとつ、主を失って放置されたそれに、彼はそっと首を差し入れ、ちょっと振り返るそぶりを見せると、もう靴を脱いで体を滑りこませた。
 編まれた繭の中は暖かく、揺られながら彼は深く呼吸した。脱いだコートを脇に寄せてしまって、隣の気配を窺おうと息をひそめた。

 たぶん半世紀、もしかしたらもっと以前から、新陳代謝を放棄した思想。潤いを失い、とうに枯れ果てて、かえりみられることもなくなった言葉が、そうして講師の口を離れ、まばらな学生の脳裡を占めて、ほとんど吟味されることもないままに忘れられる過程のただ中に、彼もまた席を占めている。環境の保全のために要請される方法のそれぞれについて説明が繰り返され、幾人かが使う筆記用具が、控えめに音を立てながら紙面を汚してゆく。
 こめかみに埋め込まれた小型の装置を、皮膚の上から触りながら、彼は先月行われた手術のことを考える。公共終端のアカウントを介して、直接に個人に届く通達。ランプの黄色い点滅。医師から受けるひととおりの説明。手術室で見たロボット。疼痛。公共終端にダウンロードされた、容量の大きな取り扱い説明書。
 マイクとスピーカーを兼ねた、汎用の骨伝導インタフェイス。そんなものが必要となる環境は限られているはずで、雑踏だの作業場だのは問題にならない。日常的に轟音を耳にし、なおかつ正確な伝達を要求する場面を、すべての学生について想定すること。指し示される結論は明確で、それでも声を上げるものは限られている。取り扱い説明書の片端に、小さくゴシック体で印刷された四文字を、無感動に眺めたことを思い出す。
 行くかと声がかけられて、彼はそちらを振り返る。
 半地下の、照明の乏しい食堂のテーブルで、四人は言葉少なく食事する。筋の多い肉を何度も噛みながら、向かいに座る男子学生が予定を尋ねる。告げられた日付に少したじろき、バイトが忙しいとお定まりの言い訳を使う。どこで働いてるのか、いい加減教えてくれたっていいじゃないか。どうせ楽しい話にはならない。暗い底でうごめく全員が疲弊していて、咀嚼の音だけがしばらく響き、ときおり誰かがひどく咳き込む。
 集合と同じく曖昧に、彼らはふたたび散開してゆく。昼下がりの陽光が背中を温め、銀杏の臭いが鼻をつく。イチョウの葉が敷き詰められた構内の通路に、肝心の実はひとつもない。誰かが持ち去り食しているのだろうと、彼はぼんやりと考える。
 角を右に曲がり、横断歩道を渡るうちに、鼻腔を占めていた臭いは薄まってゆく。あるエリアからあるエリアへ。判然としない境界を越えて、彼は迷うことなく歩いていく。
 目指す喫茶店はひっそりと、常連でなければそれとわからないほど不活性に、しかし営業を続けていた。記憶にある限りはずっと、店先に掲げられていた外国の国旗は、ある時店内に移された。バーカウンターの後ろの壁に目をやり、褪せた鮮緑を確かめようとしても、剥き出しの壁だけがただ広がっている。
 二代目の店主は落ち着きのない動きで、琺瑯のポットからコーヒーを注いでこちらによこす。頑固に据え置かれていた値段が上がったのは昨年のことで、そんな風にして一切は瓦解していく。
 客がまばらであることを確かめて、彼はテーブル席に腰かける。コートを脱いで背もたれにかけ、カップに口をつけたところで、奥の席で雑誌を広げていた男が立ち上がり、よろめきながら外へ出てゆく。車の走り去る音が聞こえるが、彼が振り返ることはない。飲み干すと手早く代金を支払い、かけていたコートを手にとって店を出る。
 見知らぬ客がひとり、入り口に近いカウンター席に座っていたのが、どうにも気になって仕方ない。背後をそれとなく確かめても、それらしい影は見当たらない。
 光を返す川面を見つめ、そちらに背を向けて家々に呑まれる。

 かろうじて営業を続ける果物屋の二階に、彼は挨拶もせずに上がってゆく。かつての繁華街の成れの果て、朽ち果てようとする放棄されたビルの群の中に、組織の拠点は置かれている。
 待っていた数人に手を振って見せ、コートのポケットから紙片を取り出す。予定どおり受け渡しは行われたが、内通者から得られたゆく。パスを生かす手立てがない。優秀な技術者を失って、彼ら組織は電磁的な手立てを封じられたに等しい。
 部屋の隅には終端のクローンが、コードまみれになって置かれている。ひとりがそれをしばらく弄るが、やがて首を振って下へ降りていく。
 接続が支配の手段となり、切断が抵抗の象徴になっても、終端なしには立ち行かない部分は多い。矛盾の解消はある個人に委ねられ、そして当たり前のように彼女とともに破綻した。
 探索の過程で、彼女は触れてはいけない何かに触れたのだと噂されていた。形を持たない恐怖が速やかに、きわめて効果的に組織の隅々に浸透していった。

 隔壁を取り除いて造られた広間に、少しずつ人が集まってくる。
 計画を中止することは、この段階に入ってはもはや不可能だということを、構成員のすべてが諒解している。一方で想定外の損失が、実行にどの程度響くのかについて、正確に把握している者はひとりとしていなかった。
 長く続いた会議が終わり、幹部のひとりが彼を呼び止める。人が去ってゆく部屋に音もなく、冷たい空気が流れ込んでゆく。
 果物屋の裏口に連なる、錆びついた非常階段をふたりは登る。薄く張られた鉄板が、思いのほか大きく音を立てて軋む。どこか遠くから煙が広がり、すこしずつ粘膜が傷つくのがわかる。暖気が漏れだす屋上の排気設備に、吸い寄せられるようにして腰を下ろす。
 幹部はどこからか缶をふたつ取り出し、無言のままで彼に手渡す。小気味のいい音がしてプルトップが開き、湯気とともにポタージュの匂いが流れる。ゆっくりと飲み干すうちに体は温まってゆく。
 曇天が闇を濃くする夜に、窓に灯った明かりはまばらだ。遠くに走る幹線道路に、列なして流れる光ばかりが鮮やかで、それらのひとつひとつが装甲車輌であることを彼らは知っている。いくつか言葉を交わし、どちらかが彼女の死に触れようとしてやめる。
 目下の街のあちこちでは、巡回する夜警の警棒が光る。夜間外出禁止令の施行と増員。彼らとて面倒に巻き込まれたくはないのだろう。彼らが対象を見つけるよりも早く、対象が彼らを見つけられるように、警棒はことさらに大きく振られ、残像は弧を描きながら減衰してゆく。
 それら数少ない光点も、いずれは消え失せるのだと彼は思う。見届けたいと少し願って、そんな自分に驚きもする。真っ暗闇の夜はきっと、今よりもにぎやかになるんじゃないか。
 行くよ。もういいのか。ああ、ありがとな。
 巡回路を念入りに迂回しながら、彼は緩慢に寝処へと帰ってゆく。
 
 頭の中で音が鳴っている。侵襲性の政府広報。彼は闇の中で体を起こす。接近する低気圧についての情報が、委細を明らかにせずに報じられている。外を見ようとして窓辺に歩みより、乱雑に貼り付けられていた段ボールを引き剥がしていく。木枯らしが枯れ葉を巻き上げ、可視化された渦がそうして、うらぶれた通りを吹き抜けてゆく。
 床に転がったシリアルの紙箱。猫が描かれたマグカップ。痛み止めのガラス瓶。ディスプレイのアーム。脱ぎ捨てられた下着。いつもかぶっていたニット帽。ものどもが彼を包囲する。闇に浮かび上がった白いマフラーのことが、ほんの一瞬だけ脳裡をよぎる。
 遺品の処分のことを思って、おろおろと狭い部屋を見渡す。衣服は売るあてがついているし、本も写真も手許に残す。だから総数は多くならない。化粧品と、一足だけの靴がナップザックに収まる。コートを引っ掛け、姿見を瞥見して、冷たい空気の中へと歩み出す。
 コンビニエンス・ストアで着火装置を買い、包装を断ってポケットに収める。廃校の、立ち入り禁止の柵を乗り越えて、枯れ葉を踏みしだきながら前へと進む。先客の存在を示す焦げ跡が、真新しく焼却炉には残されていて、誰がやったのかと少し考える。
 厚い耐熱ガラスの扉から、焔の舌のふるまいが見てとれる。ねっとりと甘いような香りが隙間から漏れだす。煙突を覆う骨組みには蔦が絡まり、立ち昇る煙は突風に散らされる。ポケットに手を突っ込んで、転がっていたブロックに腰掛けてそれを見つめる。風が断続的に歓声を運び、彼は立ち上がって来た道を戻る。講義棟の外壁にへばりついたグリーンカーテンの残骸が、風に揉まれて分解してゆくのが見える。通りに出て、喫茶店を通り過ぎ、川の方へと歩いてゆく。
 山あいを足場にして空は広い。鈍色の固体のように見える雲塊は、変形を続けながら次々に流れ去ってゆく。橋の欄干の、粒子が積もったステンレスに肘をついて、彼はそういう空を見渡そうともするが、事象に比して感動は卑小にすぎるようでもあって、やるべなさに体をおこして遊歩道へと降りてゆく。道の向こうにベンチがひとつ、彼を待つようにして佇んでいる。

 住人の体臭が残る偽繭の中で、彼は公共終端の画面に触れる。
 メッセージはたった一度だけ、頭蓋の内側に響いて消える。差し出し人も送り先も記されていない、きわめて単純な短文だ。
「気をつけろ、同志たちはお前を疑いはじめている」
 体重を柔らかい内壁にあずけて、彼は呼吸を繰り返す。こんなことをいつまで続けるのかと彼は自問する。解答が示されないままに時間は経過する。
 冷たい水の中で、彼女は何を思ったのだろうか。

反響の部屋(仮題)

 油滴も風鈴の音も絶えて、おれは否応なしに内省的になっていった。ぴくりとも動かぬ寸白に苛立ちを感じ、そうしておれをここに追いやった連中について思い出そうとした。

 その巨泡に名はなかったが、世界最大の泡体であることに疑いをさしはさむ者もまたいなかった。
 実際、それは不必要に巨きかった。暖まるのに時間がかかり過ぎたし、声は端々に届く前に減衰してしまった。
 だから使われることだってほとんどなかった。おれの記憶にある限りではたったの二回。どちらも両家の会合の場としてだ。
 思い出したくもないそれら会合については今はいい。問題は三度目があったということで、集まった面々は心底うんざりした顔をしていた。
 井筒側にはそれでも、身内の失態からの出席であることもあり、しおらしい声をあげようとの努力をしていた。寸白の癒着がひどい者の、喉を引き攣らせての発声は、なるほど憐憫の情を湧き上がらせるだけの材料としては充分で、そうした目論見はある程度成功しているようだった。
 対してこちら、我らが筒井筒のみなさんときたらひどいものだった。ある者は寸白に潜り込み、ある者は腋腺から攻撃臭を放って、思い思いに不平不満を表現していた。敵意を剥き出しにする者はそれでも少数派で、はやく温かい家泡に帰りたいというのが、多くの者の偽らざる心境だったろう。
 おれとしてもまったく同感ではあったが、それにしても堪え性がない奴が多すぎるのではないか、横溢する大音声と臭気に、今や巨泡

 

   *

 

 E. aspergillum Owen号は予定どおりに軌道に投入され、設置された装置のいちいちは順調に稼働を開始した。
 外殻表面に設置された太陽光電池からの給電を受けて、Venusもまた目覚めつつあった。
 公式の取り決めの上では、Venusには一切の固有名が与えられなかった。ある技師が提案したVenusという名はだから、法的に妥当でないとして却下された廃案に過ぎなかった。
 しかしVenusに名前というものを仮定するならば、ふさわしいと言える唯一の選択肢でもあった。
 Venus――彼女の物理的な基盤は、Owen号の各所に配置された電算機と、それらを結ぶ通信網にあった。最大の計算資源を有するひとつは心臓部として、二重の隔壁の内側、均一な円筒の重心に置かれた。

   *

 

 (...)

 

   *

 物心ついてからの数十年、彼女の計算資源はもっぱら、Owen号の姿勢制御に費やされた。
 太陽系に張り巡らされた観測機の網が絡めとった、衝突の可能性がある天体の一覧を更新し、時には軌道を修正した。躯体の回転速度を計測し、必要に応じて減速、加速した。一切の調整は表面の、六十四のスラスターからのイオン推進によっておこなわれた。
 いまやOwen号は、親戚の最年長者となっていた。息子たちは父よりずっと軽くてすばしっこく、もっとおしゃれななりをしていた。

 

   *

 

 (…)

 

   *

 

 誕生から百五十年と少しして、Owenの観測機はリストにない小天体の接近を観測した。機体外の観測機群からの更新が行われなくなってから、すでに十余年が経過してのことだった。
 比推力の理論値を参照すれば、もはや衝突そのものが避けられないことは明らかだった。Venusは電力のほとんどを回避のため振り分けたのち、二世紀前に定められたとおり、二つのフェイルセイフを実行した。
 彼女はまず、居住区の住民たちに休眠状態に入るように働きかけた。住民の九割が休眠に入ったことを、眠殻の稼働状況から確認した。
 並行して彼女は、衝突予定地付近の太陽光電池を外殻の内部へと引き込み、代わりに殻外に泡状の素材の前駆体を塗布し、そうして自身も休眠に入った。
 反応による膨張の終わりと時を同じくして、衝突が起こった。

 

   *

 

 (…)

 

   *

 

 まだ若かったOwenは頭をひどく打ち、以前よりもふらつくことが多くなった。
 彼のよたよた歩きはまた、足を悪くしたこととも関係があった。消化器《プラント》ももう以前のようには働かなかったし、軽い神経症の兆候すらあったのだ。
 目覚めたVenusが目にしたのは、そうした想定を超えて深刻な被害だった。原因の調査をするよりも早く、彼女は斥候探査機の製造を開始した。もはや自分自身より他に、頼りにできる存在はいないと結論づけたのだ。
 人命と資源を長期にわたる危機に陥れ、そのうちの決して少なくない部分を奪い去っていった惨禍の直接の原因は結局のところ、エアバッグ作動試験の不徹底だった。彼女は一連の報告を送信しはしたが、返答を待っても時間の無駄だということもまた諒解していた。
 ほどなくして、少しばかりましな代用品の合成がはじまった。

 

   *

 

 (…)

 

   *

 

 数世紀が経過し、彼はまたいくつかの打撃を受けていた。
 今や自転はほとんど停止し、スラスターは軌道修正にのみ使われていた。
 これは彼女の判断によるものだった。彼女はもうずいぶん前に、信頼をおける外部機関との通信を確立するまでの、無期限の耐久期間に入ることを決定し、しかるべき手段のそれぞれを着実に実行していたのだった。
 Owen号とその住人を、できうる限り永らえさせること。
 できうる限り両者の、軌道投入の当初の姿をとどめること。
 ふたつの相反する命題の間で彼女は逡巡を重ねた。数ヶ月を費やして導き出された結論は、より存続の側に傾いたものだった。
 具体的には姿勢制御の方針変更と、それまで居住区に確立されていた生態系自体の大幅な改変。彼女は円筒を二分割し、半円を底とする二つの区画を指定し、それまで透明にとどめおかれていた外殻に手を加えた。
 Owen号とその住人は、より静的な恒常状態への移行を開始した。

 

   *

 

 (未完)

これはいわば迂遠な侵略なのだと博士は言った

 これはいわば迂遠な侵略なのだと博士は言った。われわれの記憶、われわれ自身のあり方を書き換えようとする一連の働きなのだと。そして最もたちが悪いことには、書き換えは富める者から順に進行するのだ。
 物語ることのできない物語。彼らは惜しいから話すのではない。彼らを書き換えた物語は、それが完全に異質なものであるがゆえに、彼らの発話機能によっては再現することができないのだ。

前略

車両を歩き前へと向かう。車掌と、誰か女性の声が聴こえる。興味もない相手との関係は切るべきだと声は言う。車窓から世界が見える。ガラスに閉じ込められた、錆びついた金属の骨格。凍てついた町。気がつけば車掌も女性の声も消えていて、僕は体がすっぽり入るだけの鉄の棺桶(その断面は台形である)に身を横たえている。単音から成る物悲しい音楽が聴こえている。世界は終わりを迎えたのだ。

「この奥に」

 座っていた女が囁いた。わたしは音を立てぬように歩を進めた。

   *

 依頼を受けたのは数ヶ月も前だった。ひとつの大きな仕事を終えて、わたしはまだその町の酒場に入り浸っていた。酒を奢りたいという者は絶えずあらわれたし、わたしの側にも喜ばしい申し出を断る理由はなかった。
 町にいくつかある酒場のうち、とりわけ小さなその店を訪れた晩のことだった。わたしはその日も常連たちに、遠い国での出来事を話してやっていた。
 わたしの冒険譚が佳境を迎え、酔いもほどよく回ったころ、その男はわれわれの前に姿を現した。
 扉が軋みながらゆっくりと開き、店内にいた幾人かがそちらを振り返る。
クローデルという男が来ているな」
 ゆっくりとあたりを見まわしながら、奇妙な訛りを含んだ声で闖入者は言った。並んだ赤ら顔に視線を走らせ、そうしてわたしに目を留めて、何か言いたげに口を開いた。
「わたしだ」
 目が合ってしまったからには仕方がなく、しぶしぶながらわたしは応える。
 ずいぶんと鋭い目つきをした、まだ若そうな細身の男だ。纏う衣服の生地は上質で、相当の値が張る品と映ったが、汗染みて埃にまみれた今はかえってみすぼらしかった。この地方のものではない厚手の素材が、慣れない長旅をしてきたことを物語っていた。
「話がある」
「悪いが」
 仕事のことなら後にしてくれないか。反射的にわたしはそう口走る。賑やかだった店内はいまや静まり返り、酔客の注意はもっぱら青年へと向けられている。場が冷めてしまったのは仕方ないとして、騒ぎになるのはごめんだった。
 泊まっている宿を教えろと言われ、仕方なく空き瓶のラベルを剥がす。走り書きした街路図を渡してやると、男は身を翻して店を出て行った。注文もしないでと店主が口を尖らせ、飲み直しにとわたしは注文を飛ばす。白々しさの混ざった歓声が上がって、一同は大袈裟なくらいに喜んでみせる。

 白みかけた空に密林の鳥たちが飛び立つころ、わたしは宿への道のりを歩んだ。
 待ち受ける依頼のことを思えば、どうにも気が進まないというのが正直なところだった。確かにふところは心もとないし、他に飯の種のあてがあるわけでもない。けれどああいう手合が持ち込むのは、ろくでもない話だと相場が決まっている。

「遅かったな」
「そう焦るな」
 あんたみたいな目つきをした奴が玄関先をうろつくのは、世間では営業妨害って言うんだぜ。ちょっとは宿にも気を遣ってくれよ。
 まわらない舌でそう言っても、男はぴくりとも眉を動かさない。まあ入れと部屋へと連れていき、「起こすな《DON'T DISTURB》」の札を廊下に出してから、わたしはベットに腰を下ろした。
「ところで」
 どこから来たんだとわたしは尋ねる。ずっと北から来たのだということくらいはわかっても、あのあたりの地勢には暗いのだ。
「失礼した」
 所属をこちらの言葉で表現しようとして、男はずいぶんと苦労した。組織の名前らしきものが並ぶ、長ったらしい北方語はわたしには聞き取れず、軍人かと聞くと違うと言う。地方長官の下で働く、ある部署の職員というのがどうやら近いようだった。
「それで」
 仕事の中身はつまるところ何なのか。
 治安維持だと男は応える。馬鹿にするなと怒りたくもなる。ゴミ拾いだとかそんなものでないことくらいは、わたしだって最初からわかっているのだ。
「あのなあ」
 詳細を教えてくれないことには受けようもないだろうに。
 申しわけないが詳しいことはわたしにもわからないのだと、はじめて困り顔を見せながら北方人は言った。
 スプリングを軋ませてわたしは立ち上がり、悪いが帰ってくれとドアを開ける。明らかに狼狽した様子を見せて、男は待ってくれとほとんど叫ぶように言う。
 声がでかすぎる。
 廊下に面したドアがいくつも開き、パジャマ姿が顔を覗かせる。あわててわたしは扉を閉め、わかったわかったと繰り返す。
 わかったから、もう少し静かにしてくれ。続きがあるなら聞こうじゃないか。
 報酬を弾む。それから、路銀も出す。と条件が並び、その後にかなりの金額が提示される。破格と言ってもいいくらいの額だ。
 そういうことなら話は別だが、むしろ怪しむべきではないかとも思う。詐欺ということはないにしても、明らかにまずい事態に巻き込まれかけているのではないか。
 せめて頭金を払えと注文をつけると、重そうな皮袋が小机に置かれる。紐解くと中身は山吹色にきらめき、何枚かの金貨が溢れだして音を立てる。思わず見とれそうになったところで我に返り、はっと顔を上げて双眸を覗き込んだ。
「やばくなったらいつでも手を引く」
 それでもいいなら引き受けよう。
 驚いたことに、返ってきたのは首肯だった。

   *

 業務内容は色々だ。
 土木工事のたぐいにも手を貸すし、喧嘩沙汰にも首を突っ込む。
 報酬と危険のバランスが問題で、それ以外の条件が判断に関わることはない。
 民族の誇りだとか絶対の正義に興味はないし、何か気に入らない奴らがいるというわけでもない。そういう動機をもって働いたり、人を殺す人間は少なくないし、結構なことだとは思うけれども、何かひとつの信条に肩入れするようなやり方は、とても危険で得るものが少ない。
 わたしにとって大切なのは、身の安全と退屈しない生なのだ。ほどほどの冒険は歓迎するとして、命を賭けた挑戦はごめんこうむる。

 太陽が昇りきる前に街を後にして、わたしたちは河の畔にある船着場を訪れていた。
 濁流はうねりながら一切を運んでゆく。木の葉、小枝、腐りかけた食べ滓。神像に死体、衣類に食器。ここで生きる者、ここで暮らす者を取り巻くすべて。
 係留された水上生活者たちの家々は、筏の上に組まれた小屋だ。漁をしながら旅人を運び、稼いだ日銭で足りないものを買う。身体を包む布とか、ここでは獲れない青果とか。そういったものを。
「やあ」
 日差しを避けて寝転がっている、赤銅色の肌をした男が目を開ける。裸の上半身には太い線で文様が描かれ、魔除けと豊漁を男に約束する。
「河口まで行く舟を探してるんだが」
 それならおれが行くよと男が言う。示された額は妥当なところで、わたしは前金を支払おうとして、金は依頼者が持っていることに気づく。
「おい、あんた。そういえばなんて名前だったっけ」
キーロフ。レフ・キーロフだ」
「よし、キーロフ。支払いを頼む」
 例の金貨入りの皮袋から、キーロフはそのまま数枚を掴み出して払う。不用心きわまりない行動で、事実船頭の眼の色が変わる。勘弁してくれよと頭を抱えたくなるが、出してしまったものは仕方がない。どうにも先行きが不安になり、所在なげにわたしは煙草に火をつけた。

 満載されたイモと一緒に、わたしたちは舟へと乗り込んだ。人一人がちょうどおさまるだけの幅に体をおさめ、水の滲み出す船底に腰を下ろす。
 毎度のことではありどうとも思わないが、キーロフは露骨な不満を表情に出していた。
「まさか一等船室が待ってると思ってたんじゃないだろうな」
 というか、来る時は何を使ったんだ。尋ねるとなんと陸路を辿ったと言う。この地方で河川交通を利用しないというのは愚の骨頂で、かなりの日数と費用を無駄にしたことになるのではないだろうか。
「さて、出るぞ」
 船頭の声とともに舟はゆっくりと岸辺を離れ、大河のただ中に、巨大な流れへと次第に取り込まれてゆく。
 川面をゆく舟は色とりどりだ。下流域からの荷物を持ち帰って遡行してくるものもあれば、わたしたちのような旅客を乗せた舟、もっと上流で伐り倒された丸太で組まれた筏もある。用材は家になり、舟にもなって、水上生活者たちの住む筏にも使われる。ときおり魚が跳ね、鳥が目を光らせて、河が養う命の豊かさに思い至る。
 好奇心の強そうな目であたりを見回すキーロフを見て、これなら長時間の移動にも退屈しないだろうと安心する。きっと見たもののいちいちをきちんと覚えていて、故郷の皆に語って聞かせるのだろう。

 幾度かの休憩をはさんで舟は進み、川幅はいまやとてつもなく広い。はるか遠くの対岸は霞んで、あたりはさながら海のようだ。
 もう沖に出たんですか。キーロフは真顔でそんなことを尋ねる。舐めてみなと水面を指すと、真面目くさった顔のまま指先を浸し、真水であることを確かめて変な顔をする。
 水平線には没さんとする陽が映り、水は燃えるように真っ赤に染まっている。夕方の狩りに赴く水鳥の大群。一斉に鳴き出す水棲生物たち。静謐とはほど遠いそんな風景はしかし、同乗者の感性のどこかに響いたようで、鋭い目は日没を見つめたままじっと動かない。
 まさか泣いているんじゃないだろうな、わたしは頬をちらりと窺うが、迫る夕闇は一切を不明の裡に呑み込んでゆく。

   *

「一五〇〇? 話にならないな、次行くぞキーロフ
 不満そうに呼び止めようとするキーロフと船主を無視して、わたしは港の雑踏を進んでゆく。河下りの舟を降りて、わたしたちは大洋を渡る船を探していた。大陸から大陸への旅。今度はイモの隣というわけにもいかず、動く金額も桁違いだ。キーロフときたら相変わらずの世間知らずで、相場のことなんか考えちゃいない。ほいほいと言い値で払おうとするところを何度止めたかわからない。
「ひどいじゃないか、人の良さそうな船主だったのに」
「誰だってカモにはにこにこするさ。特にあんたみたいな手合にはな」
 その鋭そうな目は節穴か何かなのか。それともあんたの国は公僕に浪費を推奨しているのか? 矢継ぎ早に言ってやるとキーロフは黙り、ただわたしの後をついてまわるようになる。
「このボロ船で四〇〇? ありえないね。三〇〇でどうだ。三五〇? まあ、仕方ない。手を打とう」
 キーロフがまわったきらびやかな客船すべてを袖にして、わたしが選んだのは古い連絡船だった。半ば骨董のようだが作りは確かで、信頼の置ける船だった。
 またもやキーロフは皮袋を取り出す。薄汚い乗客たちがこちらを見ている。あの時やめろと言っておくんだった。今更ながらわたしは後悔し、こってり文句を言ってやらないとと心に決める。

 われわれの船旅は順調とは言いがたかった。沖合に出るのを待ち受けていたような大時化に、デッキはひどく傾いてはわれわれを揺さぶった。蛆の湧いたビスケットをかじりながらわたしは耐えたが、食事にも揺れにもうんざりした様子のキーロフは青くなり、不機嫌そうにうずくまることがほとんどになった。
「おい、酔ってるのか?」
 我慢しないで吐いてきた方がいいぞと声をかけても、応えが返ることはなかった。妙なところで線が細いなとわたしは呆れ、愛想を尽かして放っておくことにした。
 黴臭くて静かな船室で、わたしたちはお互いに押し黙って時間が過ぎるのを待った。なんでこんな奴をよこした、姿の見えない依頼人にわたしは腹を立て、それ以上に、なぜだかわからないがわたし自身に腹を立てていた。

 翌日、わたしは真っ青になったキーロフに起こされた。どうした、吐くなら船縁に行けよとわたしが応じると、そうじゃないと深刻そうにキーロフは言う。
「金がなくなってるんだ。夜のうちにやられた」
 おい。ちょっと待て、つまりそれは。
「あんたの報酬の全額と、この先の路銀だ」
 乗客を全員呼び出せ。次の瞬間わたしは叫んでいた。

 ずらりとならんだ後ろ暗そうな面を前に、わたしはキーロフの通行証を掲げる。
「お前たちだってこれが何かぐらいは知ってるだろう。ここで白状すれば許してやるが、隠し通そうものなら北の治安警察がこの船に乗り込むことになるんだぜ」
 何人かが不安そうに顔を見合わせるが、それだけだ。埒が明かない。
 金貨の詰まった皮袋だ。そう簡単に隠せるものでもない。わたしは船長に手荷物検査を提案して認められ、ひとりひとり調べてまわることになった。
 やる気のなさげな手つきでわたしは鞄を開き、小包を解いて中身を検めていく。もちろんこの中から見つかることなんて期待しちゃいない。問題は……。
「あった!」
 前もって船室を巡らせていたキーロフが歓声を上げ、わたしは逃げ出そうとする男の腕を掴む。
 船内を騒がせた捕物の後、海の方も嘘のように静まり返って、われわれは快適に残りの日数を消化したのだった。

   *

「ここまで来たら、後は街道を北上するだけでいい。一週間と少しでぼくの町に着く」
 港からほど近い都市の宿屋で、地図を指しながらキーロフが説明する。ホールの暖炉にはすでに火が熾り、投げ込まれた薪が音を立てて燃える。冬の支配する領域に、わたしたちは足を踏み入れたのだ。
 そこが旅の終点なのかとわたしは尋ねる。そろそろ仕事についてもっと細かいことを教えてもらってもいいころだった。
「そうではなくて、きみの目的地はその先の村だ。ぼくはそこまでは案内しない。村の人間がしかるべき方法で、きみを先導してくれるはずだ」
 相変わらずはっきりしない言い方だが、とにかく村に行ってなにかしらを片付ければいいらしい。それはならず者の集団かもしれないし、道を塞ぐ巨大な岩かもしれない。村人はわたしを歓迎するかもしれないし、あるいは……。
「ところで」
 せり出したマントルピースの上に並ぶ木の細工の方を向いて、キーロフは話題を移そうとする。鳥や獣を象って細かに彫られたそれらを、彼は何故だか気に入ったらしい。 
「ほら、ここの嘴なんてどうやって彫ったんだろう……」
 ふくろうの置物をわざわざ手にとって、キーロフは同意を求めてわたしの目の前にそれを置く。
「あのなあ、それのことなんだが……」
 並んだ置物はことごとくわたしの作品だということを説明するのが、ここまで恥ずかしいことだとは思わなかった。
 ここはわたしの定宿になっていて、手慰みに彫った細工物を店主がうれしがって並べる。こんなものまで彫っただろうかという品もあり、わたしとしてはどうもやりにくい。
 素晴らしいじゃないかとキーロフは息をはずませる。それほどのものかと改めて一瞥をくれてやる。
「わたしのはつまらないさ、写真みたいなもので……」
「なんて滑らかな断面なんだ。何で磨いたらこうなるんだ?」
 わざわざ含みを持たせた謙遜を聞こうともせずに、キーロフは細工をしげしげと見つめて声を漏らす。本当は磨いてもいないのだが、いちいち説明するのもばからしかった。
「こういうものが好きなのか?」
「彫刻のことなら、好きと言ったっていい。癖みたいなもので、好き嫌いじゃあないが」
 あんたも何か彫刻をやるのかと水を向けてみる。わたしの話ばかりの流れはどうにも都合が悪く、それに実際興味もあったのだ。
「彫刻というわけじゃないんだけれど……」
 キーロフの生家ではもっと実用的な木工が盛んだったという。
「長い冬の間。野外でできる作業は限られている。それでぼくたちは木工をやるんだ。盥にいっぱいお湯を沸かして、そこに木を浸すと柔らかくなる。好きなように曲げて形をつくるんだ。しなやかな材木からはいい椅子ができる」
 そうやって椅子を作ったり、修理したり、腰掛けてお茶を飲んだりしながら、春が来るのをじっと待つんだとキーロフは言う。
「ただ待つのかい?」
「ああ、待つんだ」
 暖炉の中で燃える薪が崩れて、かすかな音が広がった。部屋を満たす揮発した植物油の匂いが、その時は妙に心地よかった。

   *

「それじゃあな」
 遠ざかっていく姿に向けて、わたしは精一杯手を振る。キーロフが務める町、この地方の中核都市から、北へと伸びる未舗装道路、雑貨を運ぶ荷馬車に乗せられて、わたしは終着点に向けて出発した。
 険しくなっていく山稜と、せばまり悪化する道路事情が、これから赴かんとする村の様子を物語っていた。無口な御者は何をも語らず、同行者を失ってわたしはいささか不安になった。
 粗末なパンを水で流し込み、固くて冷えきった荷台に横たわって夜をやりすごし、この仕打ちがいつまで続くのかといい加減にうんざりしてきたころ、御者が唐突に到着を告げた。
 荷降ろしをはじめた御者を尻目に、わたしは降る雪に霞む家々へと向かった。朦朧とした白い背景の中に黒い染みがひとつあらわれ、やがてそれが待っていた村の者だということがわかった。目を伏せ、口をすぼめながら、彼はようこそと告げた。怪しい文法とひどい訛りには辟易したが、それでもこの村で聞ける一番ましな通用語なのではないかとわたしは思った。
 ゲストハウスとは名ばかりの丸太小屋に通され、わたしはようやく一息ついてベッドに身体を預けた。すきま風がひどい壁ではあり、水平も怪しい床ではあったが、それでも荷馬車での数日を過ごしてきたばかりのわたしには、外界と隔てられていることがありがたかった。
 あくる日、弱々しい光を投げかける太陽が昇りきる前に、例の村の者が戸口にあらわれた。すわ仕事かとわたしは色めき立ったが、まずは諸々の説明を聞かせるというようなことを村人はぼそぼそと喋った。
 わたしたちは小屋を出て、集落の中心へと歩いていった。ゲストハウスと同じような丸太小屋ではあるが、群を抜いて大きく立派とも言えそうな屋敷が見え、わたしはそこに通されることをなんとはなしに予感した。
 応接室の役割を充てられた部屋で、わたしはずいぶんと待たされた。向こうの部屋からはひっきりなしに村人があらわれ、わたしにはわからない言葉で何度も耳打ちし合った。やがてお互いにうなずいたかと思うと、わたしの方を見てこちらに来いと手振りをして見せた。
 踏み入った部屋は寝室のようだった。横たわる人物の姿を見て、むしろ病室と呼ぶべきなのだろうかとわたしは考えた。
 長く伸びた髭はわずかに威厳を残し、瞳にはまだ知性のきらめきが残ってはいたが、まぎれもなくその老人は年をとりすぎていた。村長だと案内の村人が言い、わたしは敬意を込めて挨拶した。驚いたことに完璧な通用語で、村長は長旅をねぎらう言葉を口にした。

 椅子をすすめられてわたしは腰掛け、村長の枕元で話を聞いた。任される仕事の全貌を、ようやくわたしは知ることになり、その発端である十年前の事件を、村長は克明に記憶していた。
 ひどい吹雪の晩だったという。ある急斜面の土地で雪崩が起こり、まだ達者に動けた村長は様子を見に行った。
「あれほどの現場を見たのははじめてだった」
 まばらに生えていた樹木はすべてなぎ倒され、雪の中から一組の母子が発見された。手を繋ぎ合って倒れ、母親の方は息子をかばうように身をかがめていた。村長は人を呼び救命を行ったが、ひとり息子だけが息を吹き返した。
「何週間もの間、あれは目を覚まそうとはしなかった」
 村長の家のこのベッドで、少年は昏々と眠り続けた。そうして目覚めた時、彼は常人にあらざる能力を手にしていた。
「あれはひどく凶暴になった。村の者に当たり散らし、ついには……」
 少年には父がおらず、そのためか母子は元々村で孤立していたとも言う。行き場のない怒りと悲しみは、やがて際限のない暴力という形で発露し、ますます少年を孤独な存在に追いやった。
「それでも、あれはわしの言いつけだけはよく守った。少なくともわしの目の届くところでは、あれは悪事を働こうとはしなかった」
 村長は狂犬の手綱として、村の秩序をぎりぎりのところで維持してきたのだと言う。だが彼の命はいまや尽きようとしている。
 わたしの役割はここに来て明確だった。小屋へと戻って、わたしは悪夢にうなされた。

 お呼びがかかることはそれからというものなかった。燃料の焚き木とわずかばかりの食べ物だけが、毎日そっと差し入れられた。
 そうして変わり映えのしない日が幾日も続いた。雪は夜も昼もなく降り積もり、わたしは外出することもできず閉じこもっていた。戯れに木切れを削っては、すべて火にくべてしまうことを繰り返した。なにもかもがむなしく感じられた。ひょっとしたらわたしのしてきたことだって、こんなふうに削っては燃やしての繰り返しだったのかもしれなかった。何の喜びももたらしはしない、無意味な仕事に無意味な能力。残るのはただ形のない灰と、窓の外を埋める雪だけだった。
 村長がわたしを呼んでいると、ある日人づてに言づけがあった。そうしてふたたび、わたしは屋敷に向かった。

 前回の訪問から間を開けていないにもかかわらず、病状はいっそう深刻に見えた。暖炉の火勢はますます強く、それがかえって部屋の主が弱っていることを物語っていた。
 老人がもうまもなく死のうとしていることは、誰の目にも明らかだった。縮こまった体をベッドに横たえ、ときおり顔筋を歪めながらも、老人はなんとか言葉を繋ごうとした。わたしは耳を寄せて、声になろうとする音を拾わねばならなかった。
「あれは」
 あれは本当ではなかったのだと老人は言った。意味をつかむのに時間がかかり、わたしはようやく誰か他のものには話したのかとたずねた。老人は力なく首を振った。
 もっと詳しい状況を知る必要があった。あらいざらい全てを、長年溜め込んだ悪いものを吐き出すかのように、老人は事細かに言葉を吐いた。わたしはその一切をどこにも書き留めることなく記録し、そそくさとその場を離れ密かに復唱した。その晩村長が息を引き取ったとの報がもたらされたが、まったく驚くべきことではなかった。
 こうして必要なものは出揃い、一刻の猶予も許されぬ状況が訪れた。緘口令の効力はもって数日といったところだろうし、どのみちあの男が動き出すであろうことは目に見えていた。わたしは入念な計画を仕上げ、それを実現すべく外へ踏み出す。

   *

 村外れの山奥、起伏の激しい斜面の中腹に、へばりつくようにしてその小屋は建っていた。まるで何かの罰のように見え、そうした印象は実際大して外れてもいなかった。
 日没後かなりの時間が過ぎたころ。小屋の明かりだけを頼りに、足場に気をつけながらわたしは歩いた。すでに地形を隅々まで把握し、目をつぶっていても歩けるくらいになってはいたが、積雪が刻一刻と状況を更新する今、そうした机上演習には限界があった。
 小屋の軒先にはささやかな照明がしつらえられ、入り口の脇には女性が腰掛けていた。まだ年若い、美貌のその女が、対象とどのような関係にあるのかわたしには判断つきかねた。ただひとつ、敵ではない。という情報だけがもたらされていて、それでわたしには充分だった。
 近づくわたしの姿を認め、それが意味するところを了解したのか、女の顔を憂いが走った。けれどそれは一瞬のことにすぎず、もしかしたらわたしの見間違いだったのかもしれなかった。
「この奥に」
 座っていた女が囁き、わたしは音を立てぬように歩を進める。暗い、照明のひとつもない廊下の先に、ひとつだけ明かりの差す部屋が見える。旅の終わる場所へとわたしはやってきた。それがどのように終わるにしてもだ。
 部屋の奥にうずくまる人影があり、背を向けて書物を読んでいるのがわかる。ここからは見えないランタンの光が、人物の影をこちらへと投げかけている。
「来たか」
 若い男の声がそう言った。

 そして男は振り返った。
 ランタンではなかった。赤熱する右手から放たれる光が室内を照らし出し、乏しい調度からは濃い影が伸びる。
 瞬間、わたしはぶざまに数歩あとずさる。射程はおおむね数メートル。ここは狭い。男は近すぎる。
「くたばったか、爺が」
 右手をローブの中に収めながら、男は何もかもわかっているかのようにそう尋ねる。そうだとわたしは応えるしかない。ローブの前を閉じようとする左手には指が三本欠けている。凍傷で切るしかなかったのだろうと咄嗟に考える。
「それで」
 おまえはおれに何をしてくれる。
 まだ手の内を見せるわけにはいかない。男の左手の空間を目掛け、わたしは擲弾を放る。

 それから数秒のうちに、能力の行使は進行する。
 ローブに包まれた男の右腕が、覆いを跳ね除けてあらわにされたかと思うと、床面へ落ちて幾度か跳ね返り、爆裂しようとする擲弾の破片のいちいちは、熱の流れに包まれてひといきに蒸発する。腕のひとふりで制御は行われており、おそらくはこれがいくつでも同じことだろう。見事な防御であり、同じことが出来る者をわたしは数人のみ知っているが、数秒という時間はわたしにも平等に、逃走の機会として与えられた。
 白の装束は雪原に紛れる。男の放つ熱気は雪を溶かし、立ち昇る湯気が彼の位置をあからさまに教える。わたしにとって極めて有利な材料ではあるが、敵の正確な輪郭をつかめないという点で厄介でもある。
 充分に距離をとって窪地に身体を臥せ、そこが申し分ない地形であることを確認する。わたしは呼吸音を抑え、身体の震えをしずめて、ただ死体のようにじっとそこで待った。
 ただ待つんだ。キーロフの声が聴こえるようだった。言葉どおりにわたしははやる気持ちを殺した。男は着実にこちらに近づいていた。その足元に意識を集め、予定されていた地点に至るのを待つ。
 そうして、時は来た。ぎりぎりの距離で能力を放つ。深く、正確に、わたしは男の足が触れる地点を穿つ。雪の層を貫き地盤に至るまで、能力は深く深い孔を作る。男の下半身が見えなくなった。彫刻家の才能。使用条件は対象の正確な把握。
 咄嗟の隙を無駄にはしない。傍に積もった雪山を彫刻し、村長の遺言を基に現場を再現する。これが何なのかを男は知っていて、ひと目で真実を察するはずだった。
 氷像の出来はまずまずだった。横たわる母子は引き離され、男の子はたったひとりで極寒に晒される。我が子を見棄てて逃げようとする母親、彼女に向かって力なく伸びる腕、その掌から放たれる熱が、彼を死から遠ざけ続けている。
 なんだこれは、明らかに狼狽えた様子で男が尋ねる。熱を練ろうとしてうまくいかないのがわかる。精神的外傷がもたらす一時的な機能不全。更なる時間がわたしには残される。
「おまえは」
 おまえははじめから独りだった。おまえに温もりを与える人間などいたことはなかったのだし、だからおまえは独力でそれを獲得せねばならなかった。その熱だってもう消える。わたしが奪いに来た。世界はおまえに、おまえのような者に、何をも所有させはしない。おまえのような人間に与えられるのは、ただ静かな死、それだけだ。
 嘘だと男は叫ぶように言う。輪郭の把握がうまくいかず、わたしは男を直接攻撃できない。陥穽から逃れようと男はもがき、熱波が盲滅法に撃ち出される。男の右肩に炎が芽吹き、すぐさま消されるが肌は隠しようがない。
 刳る。動脈が傷つき、勢いよく出血がはじまる。激痛に身をもだえさせ、ついに男は斃れる。充分に弱っているかどうか定かではないが。どのみち助かることはない。

 死闘の現場はいまや静まりかえり、男の荒い呼吸だけが静寂をかき乱していた。
 ひとつだけ、確かめておきたいことがあった。まだ息はある。今ならまだ。
 死のうとする男に、わたしは近づいていった。血赤から湯気が上がっていた。失われゆく体温。
「寒い」
 そうだろうなとわたしは言った。ひと呼吸ごとに、身体から熱が零れだしていくのがわかるようだった。
「おまえは」
 おまえは本当に、一度たりとも疑わなかったのか?
 そうだと男は息を吐くように答えた。

 雪が降っていた。

〈了〉